信ずる弱者は救われる?

 強い相手と打つ時、昔の私は45分程度の対局時間ではいつもアップアップしていた(関連する話はこちらをご覧ください)が、最近は35〜40分もあれば何とか打てるようになった。理由はひとえに“学習能力”。ン十年間にわたる人生の中から成功と失敗の体験をかき集め、それらの傾向と対策をひねり出し、再び同じようなシーンに遭遇しても慌てず騒がず賢く明るく処理する。これぞ、私が生来育んできた最大の長所と自覚したからだ。もし私が犬になって、条件反射の研究で知られるパブロフ博士に出会ったなら、他のどの犬よりも真っ先によだれを垂らして天才犬ともてはやされるに違いない。

 この学習能力を支えるのは、性善説に立脚して相手をとことん信頼する私固有の美学。もっとも勤務先では、「お前は人を信頼し過ぎて甘い!」と上司から叱られ、「それって結局責任回避なんだよね」と部下からは皮肉られたりしたのだが、そんなことはさて措いて——。事を進める際、相手や仲間をアタマから信頼すれば必ず円滑に行く。信頼すなわち省エネルギー。コストパフォーマンスと言い換えてもいいだろう。結果の良し悪しさえ気にしなければ(この達観が大切!)、これで万事つつがなく進行するし、労力も省けると言うものだ。

 碁でもこの流儀を通している。将棋の渡辺竜王は相手が考えている時、①100%の集中力で3通り程度の変化を考える②集中力を落として3通りの変化を考える③1つに絞って考える④どれを指されるかわからないから何も考えない——のうち②を選ぶことが多いと言うが、私はほとんどの場合④。脳を極力休ませ、相手が打った手だけに直感的に反応できる状態にしてなるべく時間をかけないようにするのだ。

 正確に言うと相手次第で少しずつ違えるのがきめ細かい私流。まず3子以上置かせるシタテ相手なら、どんな手を打つか見当もつかないから当然④。私と同等または1子か2子置かせる程度のライバルには2通りある。波長が合ってかなり相手の打つ手が予測できるなら②、まるで棋風が違うか、相手の意中をいくのを嫌って互いに反発ばかりし合う相手なら碁の流れを読んで勝負を争うより、クイズもどきに相手の着手をどれだけ当てられるか、その日の自分の直感の鋭さを占うことに関心がいく。「限りなく④に近い②」と言えるかもしれない。

 しかしウワテが考えた場合は別。特にプロ棋士の指導を受けている場合、プロの着手はほとんどノータイムに近い。たまに考えてくれる時は「ここは考えどころ」とシタテの私に教えてくれるわけだから、考えなければ失礼になる。渡辺竜王が言う①だ。と言っても、プロは大石の死活が絡むような絶対的な手どころは読み切っていて改めて考えることはあまりない。ほとんどは部分的に一段落して次の展開をにらんでおられるようだ。だから私も、それまで打ってきた部分は一応片付いたと見なす。つまり“急場”はなく、“大場”はどこかが焦点になっていると考えるわけだ。少々危なっかしい形でも、ウワテが手を抜いたなら、もうそこには手がない、あるいはしつこく手出しをしてもかえって損になると決め込む。間違っても石を取りに行くような剣呑なことはしない。つまり“全面信頼”の精神だ。

 かくして私の対局時間は着実に短縮していったのだが、問題が一つ残った。初対面のアマチュア相手とどう打てばいいか。特に困るのは、序盤、中盤、終盤で打ち方が違ってくるタイプ。序盤に相手が私でもわかる範囲のヘボ手を打ってくれば「これはいただき」と舌なめずりして楽観気分に浸ってしまうし、いかにも手練れ風にうまそうな手を打たれると「これは強い」と萎縮する。序盤の打ち方で相手の棋力や棋風を信頼し、それを基に私なりに綿密に策戦を立てて打ち進めていくと中盤から終盤にかけて必ず裏切られ、「こんなはずではなかった」と臍をかむ結果になるのだ。

 我が好敵手のかささぎさんは、この点で私とは正反対。もう数年前になるだろうか。二人揃って初めて参加した囲碁大会で、かささぎさんはたまたま私と同じ相手ばかり8人と組み合わされ(かささぎさんと私は知人同士ということで組み合わされなかった)、私が負けた相手をすべて破って見事優勝を勝ち取った。何しろ初手合いや初物に強いのだ。強そうな相手とぶつかってくよくよいじいじ悩んでいる私を尻目に、かささぎさんはあくまで無頓着、雲の上でも歩いていきそうな勢いを見せた。この頃から、私はかささぎさんを教祖とするノーテンキ教に帰依する心を深めていったようだ。

 昔、“カンピューター”と異名をとったナガシマという大打者がいた。鉄腕イナオ投手は精妙・緻密な配球を組み立ててフルスイングを防ぎ、ぼやきのノムラ監督は得意の“囁き策戦”で迷わそうとしたが、いずれも常人では考えられないような打撃で手痛い一打を浴びた。かささぎさんはそんなナガシマ選手に似たところがある。そう言えばこの5月、新たなアマチュア囲碁大会が開かれるらしいが、かささぎさんは必ずや初物を獲ってこられることだろう(私はさびしく祝勝会事務局を務めることにしよう)。

 いつしか私は好人物をさらけ出して自分を脇役に貶めていたが、それでは私が汗水かいて積み上げてきた学習能力と相手を信頼する美学はどうなるのか。思わず私は、「神に問ふ、信頼は罪なりや」と叫び出したくなる。しかし文豪ダザイ風に言葉を飾っても今日ではいかにもダサい。むしろピッタリ来るのはこちら。「私はすっかり翻弄されて、かわいそうなほど苦労させられているんです。何を信頼すればいいのか、是非教えてほしい」——。

亜Q

(2008.5.1)


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