碁界にも裁判員制度ができたら

千寿会は年間20回。傘寿を超えた最長老のチカちゃん(元文壇名人2期の濱野彰親画伯)から高校生のたっちゃんまで、30人余りの老若男女会友が常時顔を見せている。この中でもし互選で人気投票すれば、ナンバー1になるのはきっとIさんだろう(ご自身の1票を除いて満票に近いかもしれない)。何しろ人柄がすばらしい。どんな局面でも疲れたり怒ったりした顔を見せたことはないし、酒席ではご自身が飲む間も惜しんで飲兵衛仲間に酒をつくってくれるし、会員同士の対局では群を抜く白星供給王の座を守り続けておられるし——。

このIさんは2月29日生まれとあって年齢はまだローティーンだが、親子二代の弁護士さんとして活躍されている。先日、東京愛知県人会の会報5月号にご自身が連載されている「法律教室」の記事を見せていただいた。タイトルは『裁判員制度の評議について』。来年5月から実施される裁判員制度は、死刑または無期懲役などの重大犯罪を対象に、原則として裁判官3名、裁判員6名、計9名の合議で有罪か無罪か、有罪の場合はその
量刑(正確には「刑の量定」と言うらしい)について評議して決める。では具体的に、次のように意見が分かれた場合、判決はどうなるでしょうか、とIさんは「法律教室」で問いかける。

恥ずかしながら私はちんぷんかんぷんだったが、本サイトをご訪問いただく変人諸賢兄はいかがだろう。判決が「無罪」になるケースはどれとどれか、ちょっと試みていただけませんか。

1.「有罪」が裁判官3名、「無罪」が裁判員6名
2.「有罪」が裁判官3名と裁判員1名、「無罪」が裁判員5名
3.「有罪」が裁判官2名と裁判員2名、「無罪」が裁判官1名と裁判員4名
4.「有罪」が裁判官1名と裁判員3名、「無罪」が裁判官2名と裁判員3名
5.「有罪」が裁判員5名、「無罪」が裁判官3名と裁判員1名
6.「有罪」が裁判員6名、「無罪」が裁判官3名

ここでしばらく〜♪間奏曲♪〜

さて、答えは——何と、どれも「無罪」。評議が分かれた場合は、「裁判官及び裁判員の双方を含む合議体の員数の過半数の意見による」(法律の文章そのまま)、つまり「有罪」とするためには①裁判官と裁判員の双方を含み、かつ②過半数、すなわち5人以上を占めることが必要なのだそうだ。

さらに刑の量定について意見が分かれた場合、「裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数になるまで、被告人に最も不利な意見の数を順次、利益な意見の数に加え、その中で最も利益な意見による」(これも法文のまま。「利益な」と言う表現には初めてお目にかかりました)とのこと。Iさんはここまで提示して「皆さん、おわかりになるでしょうか」と記事を結んでおられる。

もちろん、私はおわかりになりません。法律家なぞにならなくてホンマによかった(もっとも、なれるわけないか)とつくづく思い知らされただけ。Iさんは、「裁判員制度」という法律の趣旨はともかく、現在の状況で来年5月に施行すれば大混乱は避けられない、拙速に陥らずに十分な準備期間を持って慎重に始めるべきだと言われるが、もともと法家思想よりも道家思想を尊びたい私には新制度に対してよりアレルギーが強い。

再びしばらく〜♪間奏曲♪〜

それはともかく、この「裁判員制度」を碁界が導入したらどうなるだろう。真っ先に思いつくのは、プロアマ混成の連碁対局。「裁判員制度」は一般の市民から無差別に抽選で選ぶ仕組みだが、碁界の場合は碁を知っていなければ話にならない。だからアマ構成メンバーは、碁を少々かじっている程度の初級者からトップアマクラスまでやたら広範囲にわたる。これでは碁にならない、ジャンケンみたいなものだと私は思う。仮にアマ
側を有段者に限定しても飲み会の座興程度。碁本来の「手談」とか「勝負」とはほど遠い意味で、前者と五十歩百歩だろう。

少しでも意味がありそうな導入例を考えるなら、碁界の賞罰に関する判断に役立つかもしれない。ただしこの場合の裁判員には、棋力はともかく、「碁をかじっている」程度ではダメで「碁が好きであること」、「碁界の情報に関心を持ち、新聞、雑誌、ネットなどを通じてある程度情報を入手している」ことが前提になるだろう。

例えば、プロアマを問わず碁界への貢献者を表彰する場合、プロ棋士・棋院スタッフ(OBや院生を含めてもいいかもしれない)、新聞・雑誌の記者・編集者ら(ここまでを「専門家またはサプライヤー」とする)に加えて、ファンではあるが局外者に過ぎない一般の囲碁ファン(「受益者またはコンシューマー」とする)が参加する意義は説明するまでもなく大きい。物品やサービスを評価する際には、開発・製造して提供する側と、
それを購入して使いこなすユーザー側の両方の視点が欠かせないはずだから。日本棋院地階の『囲碁殿堂』入りする人物には大差はないかもしれないが、貢献者の方はかなり意表をついた選別があり得るのではないか。

それと、私は結構こだわっているのだが、1年間に打たれた碁の中から最も魅力を感じた棋譜の審査(ご参考までに、碁界に「棋譜大賞」をとの私論にお目を通してみてください)。二人の対局者(プロ棋士だけでなくトップアマも加えてもいいかもしれない)が心血を注いだ“名局”をプロ棋士3人、アマ6人が合議して決めるのだ。この場合、評価基準がばらばらになっては意味がないから、例えば「新手」とか「創造性」を尺度にする『秀行賞』、「対局者同士の“丁々発止”」を賞味する『薫和・昭宇賞』、布石を堪能させられる『呉・木谷賞』、骨太の構想力を評価する『道策賞』、ここ一発の妙手に感銘する『坂田賞』といった具合に、適切な部門賞を設けたい。

もちろん審査の過程ではプロの説明にアマが引きずられがちになるが、それはそれでいい。プロ棋士3人の間でも結構評価が食い違うだろうし、アマ6人はさらに判断が分かれるだろう。それを十分な審議を経て合議する過程と、それを新聞などを通じてわかりやすく開示することがとても大切だと思う。

こんな具合に私特有のノーテンキな妄想を広げていくと、ただでさえ冗長な文章がどんどん長くなってしまう。一つだけ問題点に触れてそろそろお開きにしよう。

改めて裁判員制度の特質をなぞれば、その是非はさて措いて、「裁判官=高度な専門的知識と理性的、合理的判断力が認められた資格者(碁界で言えばプロ棋士や棋院スタッフ、記者など)」に、まるでそれらとはご縁のないような一般の市民(碁界ならもちろんアマチュア棋客)が裁判員として加わることにある。だから裁判員に期待されるのは専門家と同等な理性的判断ではなく、被害者・加害者(碁界ならば賞罰対象者)への社
会感情に基づいた情状意見を表明することだろう。

しかし例えば、人を何人か殺したような加害者の状況を調べた末に、「責任能力がないから無罪」と言われて納得できるだろうか。「被害者への同情」やら「加害者への憎しみ」やら、人類が歴史を積み重ねてきた「因果応報意識」やら「加害者の更生の可能性」やら、それやこれやをごっちゃ混ぜにして、裁判員の中で声の大きな意見に付和雷同したり、逆にむやみに反発したり……。いわんや、「あなた方裁判員には理性より感情
の発露こそが望まれているのです」などと言われれば、めちゃくちゃになりそうな気がする。

碁界への裁判員制度の導入は重大犯罪を巡る審議とは違うが、それでも何かと生臭い問題がありそう。こんな文章を書き出しておいて我ながら情けないが、結論は「やはりまだ機は熟さない」のではないか。

亜Q

(2008.6.17)


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