気恥ずかしい表現

最近の新聞書評にこんな記事が載っていた。対象は河出書房新社が最近発刊した「日本文学全集」第一巻、日本最古の「文学」と言われる『古事記』。全集を個人編集した池澤夏樹氏が野心的な現代語訳を試みたらしい。例えばあの有名な冒頭、イザナギとイザナミの会話のくだり。

「きみの身体はどんな風に生まれたんだい」「私の身体はむくむくと生まれたけれど、でも足りないところが残ってしまったの」「僕の身体もむくむくと生まれて、生まれ過ぎて余った
ところが一箇所ある。きみの足りないところに俺の余ったところを差し込んで、国を生むというのはどうだろう」「それはよい考えね」――万事がこの調子で、「なんだかくすぐったく
なる」と書評子の佐々木誠早大教授。バンカラ男子校の高校時代に古文だか日本史だかで上っ面だけ古事記に触れた私(亜Q)だって気恥ずかしい。おおらかに率直に「ナリナリテナリアマリタル…」やら「ナリナリテナリタラザル…」とやり取りする原文がやっぱり懐かしい。

文学に限らず優れた業績やスポーツなどの表彰場面などでも、この「くすぐったさ」が表れることがある。よく見かけるのは表彰台でVサインをして見せたりメダルをかじったりするアスリートたち。ノーベル賞受賞者の天野さんはメダル本体とそっくりなチョコレートを両手に掲げて満面の笑顔を見せた。そして囲碁界では井山裕太さんが六冠を達成した際、五本指をパーの形に広げた左手に右手の人差し指を添えて「六の字」をかたどって微笑む写真(法隆寺の「弥勒菩薩」みたいだった!)をあちらこちらで見かけた。もちろん、井山さんが子供みたいにはしゃいでこんなポーズをするわけがない。天野さんだってアスリートたちだって記者やカメラマンの要請に応えて誰にも伝わるちょっとしたパフォーマンスをサービスしてくれたのだろう。でもつい最近、王座戦、天元戦と相次いで失冠して四冠になってしまった井山さんにとって、あの「六の字」写真を今眺めるのは辛いかもしれない。

思い出すのは、伝説ではなく実在の4割打者、テッド・ウイリアムスの引退試合。これでお別れの最終打席、テッドは見事なホームランをかっ飛ばしてフィナーレを飾ったが、いつも通りニコリともせずに淡々とベースを一周してダッグアウトへ戻ってしまった。天才の離れ業に陶酔し覚めやらぬ歓呼を受ければ改めて観衆の前に顔を出して手ぐらい振りそうなものだが、それもしない。打たれた相手投手を思いやり、そして「自分はプロとして当然の義務を果たしたしたまで」との冷めた自己抑制。テッドは野球という派手やかなパフォーマンスでファンの喝采を浴びる並外れたエンターテイナーではなく、孤高と完全・潔癖を目指す一介の求道者だったらしい。あるジャーナリストがこのシーンにお洒落なタイトルをつけている=「神様は返事を出さない」

再び日本の囲碁界に戻り、12月1日付『週刊碁』が11月10~11日に開かれた「第3回松竹梅囲碁の集い」の“メインイベント”「高梨聖健八段vs井澤秋乃四段」の様子を紹介していた。ご存知の通りお二人は三年前に結婚された鴛鴦棋士。新年1月11日第一子誕生の予定らしい。千寿会友の成島眞さんが創設された「夫婦杯」(11月22日決勝戦)は夫婦棋士同士が組むペア碁戦だが、これは夫婦対局。秋乃夫人は「公開対局なので楽しく打とう」と思っていたのに、黒番が当たった相手の聖健八段は第一手から“鬼気迫る形相”で真剣勝負を挑み、秋乃夫人をびっくりさせて投了に追い込んだ。聖健八段はようやく終局後になって、「プレッシャーでした」と表情を緩めたという。非公式のイベント碁でもアマチュア相手の指導碁でも真剣に打聖健八段の気合を感じさせる話だ。

写真に撮られたりテレビやネット動画で撮影されたりする時、どんな表情が好ましいのだろう。喜怒哀楽を自然に素直に表に出せばそれでいいのか、見る人へのサービスを含めて愛想を強調したり、誰にも伝わりやすい仕草や言葉を前面に出すべきなのか。逆に表情を抑制し、失意に当たって泰然、得意に際して淡々とオトナの対応を見せるべきなのか。

ご参考に供するつもりはサラサラないが、個人的には絶対「オトナの対応」に限る。つい最近参加した囲碁の一泊イベント(「松竹梅の集い」と偶然同じ箱根花月園で開催、しかも高梨八段も参加された)で私は久しぶりにお会いした関西の女性と見るに耐えない写真を撮られてしまったからだ。これからは旧友との再会であれ、一期一会の出会いであれ、聖健流「鬼気迫る形相」を貫く所存でござる。

亜Q

(2014.12.21)


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