棋士の愛唱歌

 シューコーさんが「カスバの女」を歌っていた。テレビカメラなぞ一切気にかけない無我没私の世界。棋聖獲りに王手をかけたユーキ、名人戦リーグで奮戦するサカイをはじめ若き精鋭たちを今なお叱り飛ばし、弟子たちがこぞって敬愛する天下のシューコーはほろ酔い機嫌。すべての虚飾をかなぐり捨て、さんざ苦労をかけた古女房に頼りきった姿で。このシューコーさんと数々の大勝負を演じた前理事長は酒席でも羽目をはずさなかったというが、“勝負どころの宴会”では「マイ・ウエイ」を歌ったらしい。訥々とした歌い方は不器用でもスケールが大きい碁を髣髴とさせたようだ。

 シューコーの「カスバの女」、殺し屋の「マイ・ウエイ」――。人の生、勝負師の命の“愛(かな)しさ”をふと感じさせるような、何とふさわしい取り合わせだろうか。もしも私が囲碁雑誌の編集長さんだったら、何てったって棋士を対象にした“ミーハー企画”だ。頭脳は超一流でもストレスも人一倍大きい。自分の才能に対する自信も、その時々で過剰になったりすっかり喪失したり。フツーの人間と比べてかなり変わっているようにも見えるし、案外変わらないかもしれない。そんな棋士一人一人を俎上に上げ、言動所作を“ほんのちょっぴり誇張”しながら秘められた人間性を“大胆に戯画化”してあぶり出していけば、どんな面白いことが飛び出すことか。

 私の観察では、棋士に関心を持つアマの碁打ちは全体の半分いるかどうか。大多数は身近な碁敵との切った張ったで満足している。しかし棋士に関心を持つ「能動的・前向きな囲碁ファン」こそが囲碁市場を盛り上げ、海外や次の世代に碁を広める核となる。そして彼ら(私も含む)から見ると、棋士は神様のような存在。だから棋士のカリスマ性やセレブ度をアピールする一方、嘘偽りのない人となりを赤裸々に露出して、ファンを感動させたり面白がらせたりするのだ。

 シューコーさんは日頃、後進の棋士たちに口を酸っぱくして「個を立てよ」と説いている。棋士はもちろん「勝負に勝つ」ことが第一義だが、碁の真理は無限のかなたにあるのだから、何よりも人間としての深みや魅力を増すことが重要だという意味らしい。だからこそ、棋士の魅力に迫る企画が待たれるのだ。と、まあ強引かつ勝手に結論付けて、第一弾は「棋士の愛唱歌」――。

 将棋界と比べて囲碁棋士には音楽との関連はあまり伝えられていない。片岡聡・元天元のドラム、関西棋院の中野泰宏九段の津軽三味線ぐらいだろうか。歌では、紅組の主役となりそうなのはGANMO姉、白組はオヤオヤ九段か。“出不精の少女棋士”から突如ママさん棋士に変身したらしいGANMO姉は、マラリア・キャリアーやマイケル・ジャクソンのジャズ・ソウルナンバーから大黒マキの「ら・ら・ら」など何でもござれ。これに対してオヤオヤ九段は小田和正一筋。オフコース時代からほとんどの歌詞を覚えていると言うから、安倍吉輝九段並みの記憶力だ。

 「いったんマイクを握れば離さない」という噂があるのは今売り出し中の“いつまでも青年ユーキ”。ELTの「タイム・ゴーズ・バイ」がお気に入りらしい。本因坊リーグで快進撃、名人戦リーグで絶不調のソンジンは槙原敬之の「どんな時も」(だったかな?)、日中勝ち抜き碁で男を上げたのはもうかなり昔話になった緑星学園出身のガチンコのアッシー八段は、現代の青年には珍しく「股旅物」が得意らしい。アッシーが歌う雄姿にしびれた女流棋士のヤッシー五段が自分の部屋で真似をして、父親の股引を借りて浴衣のすそをからげ、物差しを振り回して蛍光灯を割ってしまったという有名な(?)逸話があると聞いたような気がする(出典不明)。

 千寿会では、中島みゆきの「地上の星」、ボロの「大阪で生まれた女」、ツボイノリオの「qin太の大冒険」などダボハゼみたいなかささぎさんと、藤あや子一筋のたくせんさんが張り合うが、ケンヂ先生がエコーを効かせまくって歌い痴れる「池上線」「あなたのブルース」も一度だけなら良いかもしれない。ケンヂと違って、シャトルとチーママは結構格好を付けるタイプだから人前ではなかなか歌わない。そんな場合は私が勝手にリクエスト。シャトルには「恋の日記」と「小さな日記」、チーママには「ラ・ヴィ・アン・ローズ」、いや待てよ、着物を着せて「花町の母」の方が感じが出るかな?

亜Q

(2005.3.8)


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