囲碁普及 海外で打つ布石
◇先達の意志を継ぎ、ブームに沸く欧州で文化交流◇

文化庁から文化交流使に指名され、3月から1年間、公費でオーストリア、スイス、ドイツ、フランスでの囲碁普及を始めて30年余り。今、欧州では囲碁など日本文化への関心が極めて高く、チャンスだと思っている。

● ○ ○

7月に選手権開催
昨年11月、この2年半、活動拠点にしていたスイスのジュネーブからオーストリアのウィーンへ囲碁事情を見に行った折り、碁の指導者を探していた地元関係者から「すぐにでも来て欲しい」との要望が相次いだ。

日本漫画のブームの中で「ヒカルの碁」もドイツ語に翻訳され、若者たちに碁も注目されつつあるうえ、今年七月にはオーストリアで欧州選手権が行われる。師匠である木谷實先生の大ファンという人まで登場し、熱気に圧倒された。その熱い要望に何とか応えたいと思っていた矢先に文化交流使の指名を受けた。

ウィーンやジュネーブのような国際都市には世界中から人が集まり、インターナショナルスクールなども多い。そうした学校などで子供たちに囲碁を教え、彼らが母国に帰ってからも楽しんでくれれば、世界的な囲碁普及の早道になる。

私の最初の欧州訪問は1974年だった。19歳のときで、大先輩の本田幸子四段(当時)と共に派遣棋士に選ばれた。

私費を投じて拠点を設けるなど海外普及に絶大な貢献があった岩本薫九段が委員長を務める海外普及委員会の推薦によるものだった。幼いころから父親に外国の話を良く聞かされ、大学で美術史を勉強しようと思っていたぐらい外国を身近に感じていたので、大喜びだった。

そのときは50日間で16都市を回る強行軍。着物の着付けを手伝っていただくなど本田先生にいろいろ教わりながら、地元の腕自慢との指導対局をした。そして翌年からは毎年のように海外へ。騎士の派遣は国際交流基金、日本航空といった団体、企業が協賛し、日本棋院が棋士を募るが、当時も長期の派遣に応じられる棋士は少なかった。

欧州のほか、米国、オーストラリア、中国など30カ国余りを回った。その間、ベルリンの壁が崩壊する直前の東欧など、様々なお国事情を間近で知ることが出来たのはいい経験だった。

○ ● ○

“留学生”も育てる
10年余りたつと、活動内容も自分なりに変えていった。直接、対局指導するのは子供だけにし、大人には勉強の仕方など講義を中心にした。徐々に各地で有望な若手が育ち、日本棋院の寮ができたのをきっかけに来日して院生修業する人もでてきた。私がかかわっただけでも“囲碁留学生は”15人ほどになる。

彼らの大半は学校の休業期間の関係で1年か1年半で帰国し、地元で普及活動に務めることになる。唯一、ドイツから来たハンス・ピーチ六段が、来日6年目、28歳で念願のプロになった。

海外普及にも熱心に取り組んでいたが、それが思わぬ不幸をもたらした。2003年1月、訪問先のグアテマラで強盗に撃たれて死んでしまったのだ。私にとってこれ以上の衝撃はなかった。どのような国・地域に対してどのような普及活動が必要かを、きちんと再考する必要があるだろう。

翌年の暮れには加藤正夫・日本棋院前理事長が急逝した。木谷門下の兄弟子で、ことあるごとに相談に乗ってもらっていた。加藤先生自身が海外普及を積極的に考え始めた矢先だった。

不幸が重なり、気分的に萎えた時期もあったが、欧州での囲碁ブームを目の当たりにして、そんなことを言っていられなくなった。棋士として対局に全力を尽くしたいのはもちろんだが、囲碁の世界普及への使命感はいちだんと強くなった。

○ ○ ●

地元の熱意に応える
文化交流使として国の名の下に普及活動ができれば、大使館や日本の文化センターなど公共施設で囲碁教室を開けるかもしれない。このメリットは大きい。欧州ではまだ碁会所は少なく、碁を打つ場所と言えばカフェだが、酒やタバコがあって子供は入れない。

また、現地では碁盤や碁石が絶対的に不足しているし、碁の書籍もまだ少ないのが現状だが、とにかく地元の熱い思いに応えたい。

かつて木谷先生は戦後の焼け野原を見て「世界中の人が碁を覚えたら、こんなことにはならないのに」と語っていたそうだ。そんな木谷先生の思いや岩本先生の志を継ぎ、ピーチ六段、加藤先生が生きていたらきっとされたであろうことを、微力ながらも継続していきたいと願っている。

小林千寿

(日本経済新聞2007年2月28日に掲載された記事を許可を得て全文転載いたしました。かささぎ 2007.3.7)


もどる