観戦記

こんな観戦記はどうでしょう?

碁を知らない女性記者がイズミちゃんとウックン夫婦へのインタビューを基に構成した読み物(『婦人公論』6月7日号「天才たちに恋をした」)が話題を呼んでいるそうだ。とりわけ、筆者自身のブログに書かれた裏話が面白い。思わず引き込まれる冒頭部分のみ紹介して、よろしければ後はご自身で訪問していただこう。

――テレビに映る彼に目が釘付けになったのは、去年のことだった。ダークスーツを身に纏った青年の鋭い眼光、引き結んだ口元。鬼気迫る、とはこのことか、囲碁をまったく知らない私にも一目で「強い人」とわかった。(中略)なんだこの人。誰なんだこの人。テロップの名前を慌ててメモした。ひとめぼれだった――。

実はこれは、囲碁サイト草分けの博学かつ論客hidewさんのHP『Voice of Stone』から仕入れた話題。同サイトでは関連して「新聞の囲碁欄を考える」というスレを立てているが、上記の“碁を知らない記者”が日本棋院の幽玄の間でイズミちゃんとウックンに石を並べてもらって感じたことをありのままに書いた情景描写がとても新鮮だったことから、同スレでの論客同士の議論はさらに発展しそうな雲行き。「最初に総譜を提示して読者からの疑問等に答える形で初めから並べ直していく(手直し方式)」「NHK杯と同様に勝負の結果をあらかじめ一切知らせず、昔の新聞碁のようにリアルタイムに同時進行させる(生中継スタイル)」などが議論されているようだ。

そう言えば、碁と体にいいことは何一つ長続きしない私が唯一数十年間実践してきたのは新聞の棋譜に目を通すこと。この際、論客たちの議論に参加したいが、観戦記のありようについては既に進行中だから、ここでは観戦記者について私見を述べたい。

観戦記は署名原稿がほとんど。新聞社所属またはフリーの囲碁専門記者らはいずれ劣らぬ筆達者。諸芸に通じる教養も広いし、自分が担当する棋戦に愛情と思い入れが深いから、文章もなかなか凝っていて読ませる。でも定年過ぎまで同じ人が担当することが多いから、どんな名文、名解説でも、どうしても飽きてくることは避けられない。そう、読者はわがままなのだ。

記者の仕事は電車の運転士とは異なり、同じ成果を安定して出せば良いわけではない。常にマンネリと戦わなければならない辛い(そこが醍醐味かな)仕事を十年も二十年も続け、その都度新味を出すのは神様でなければ無理だろう。日本語が奥深いとは言っても、表現(能力)には限りがある。結局、別の分野から“旬の観戦記者”を迎えて話題性を提供しつつ目先を変えるぐらいしかないかもしれない。

その第一候補はもちろん文士だ。本因坊秀哉の引退碁を描いた『名人』があまりにも有名だが、これは川端康成にしか書けない“純文学”であって観戦記ではない。しかしこんなすごい記念碑みたいなのがあると、後進はやりにくい。プライドが高い売文生活者(プロライターの日垣隆氏)なら意識せざるを得ない。小説や評論を書くよりもはるかに芯が疲れる畑違いの仕事だから、大御所になるほどいくら碁好きでもおいそれとは引き受けにくいかもしれない。それに常連になり過ぎると囲碁専門記者と代わり映えしなくなるし。

棋士はどうか。テンコレ、タイゾー両古豪をはじめ、ベテランのシラエ、アキラ、さらに最近名乗りを上げたオヤオヤ棋士らは専門の観戦記者に優るとも劣らないどころか独特の味を醸し出す。棋士の才能にはつくづく感服せざるを得ない。筆の立つトップアマを起用するのもこの流れだろう。

ただし問題が一つ。棋士は基本的に評論家ではなく、「自分以外皆ライバル」と同じ土俵に立つ。目上の棋士には遠慮が働くし、本音やプライベートなことをどこまで書けるかも悩ましい。逆に正論らしきものを振り回して悪手を咎め過ぎると感情的な問題も起こるかもしれない。碁にはアマの専門記者なら「控え室ではこれこれの意見が大勢を占めていた」ぐらいに逃げることができても、棋士の論評は責任の重さが違う。責任範囲をどこまで広げるかが難しそうだ。

アマ著名人はどうか。例えばネット碁導入を巡って日本棋院理事の座を離れた松田昌士JR東日本会長。日本道路公団の改革推進派委員として勇名をはせたり、今度は日本野球連盟の会長に就任したり、普通の人なら超多忙だがこの人は力が余っているのかもしれない。それなら元理事の玉稿を是非とも拝読したい。多少の独断や贔屓目はこの際、許そう。碁界改革を目指して(つい、大げさになってしまう)思う存分書きまくって欲しい。

となれば、関西棋院理事長の塩爺にもご登板いただかねばならない。棋聖タイトルマッチを最後の最後に取り損なった関西棋院のホープ、ユーキの戦いぶりを碁の内容より人生の古老から見た温かい目で綴ってもらうのも悪くない。碁も強い米長将棋連盟会長や郷田棋士らに「将棋から見た囲碁の醍醐味」を語らせるのも魅力的だ。

逆に、無名だが話題性のあるアマチュアはどうか。婦人公論記者はこの範疇に入るだろう。大学の囲碁部、級位者大会での優勝者や活躍した親子兄弟、内外の大会で才能を認められた天才少年らのフレッシュなレポートも面白いかもしれない。

私は個人的に、対局者の自戦解説が好ましい(ハンス・ピーチが健在だった頃の関連原稿があるので、よろしければご高覧ください)。若手の発展途上棋士が訥々と思いのたけを語ったり、逆にベテランのトップ棋士が、隠したい本音と飾りたい建前をまぶしつつ、決して木で鼻をくくった形にならないようにファンサービスをいかに図るかも結構興味がある。

シャトルはかつて、「新聞の観戦記は頭にくるのであまり読まない」と私に言ったことがある。1手でも不本意な解説があると、命を削るように打つ潔癖な棋士には耐え難いかもしれない。今なお強い昭和の名棋士カイホーは「プロの悪手には理由がある」と言ったそうだ。切り取った局面での是非ではなく、流れの中での必然性(あるいは蓋然性)を読み取らないと真の観戦記にはならないと言っているようだ。

ある意味で、観戦記は最も難しい原稿かもしれない。「観戦記者にいろいろな人を起用せよ」との私の主張はそれでも不可能ではない。専門の観戦記者が場合によっては手取り足とりで助っ人役をするのだ。自分で書くより手間もコストもはるかにかかるだろうが、読者は王様。新聞各社のご検討をお願いしたい。

亜Q

(2005.6.2)


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