囲碁に“性差”はありや

平成17年打初め式
平成17年打初め式(本文とは関係ありません:かささぎ)
ロサンゼルス高裁で陪審員を選出する手続きの間、大あくびを連発して判事にたしなめられ、「退屈だったから」と答えた男が法廷侮辱罪で罰金1000!ドルに処せられたそうだ。おまけに「これでもまだ退屈ですか?」と強烈な逆ねじを食らわされて――(『NEWSWEEK日本版』2005年5月4/11日号)。

この手の「言わなきゃ良かった」は私にも大いに覚えがあるところだが、ハーバード大学のサマーズ学長の真似だけは金輪際しない。何とサマーズ氏は、「女性は生まれつき科学が苦手」とズバリのたもうたのだ。発言の是非はともかく、私は他人の良いところを常に見出すタイプ。名門大学の学長という立場を超えて“無邪気な本音”を披露したサマーズ氏の“勇気(匹夫の勇?)”だけは認めたい。

しかし、自分が言ったわけでもないのに、すぐに当事者に感情移入してしまう私は、想像するだにふるえが止まらなくなる。何しろ千寿師匠と来た日には、遠くでさりげなく「女性の割には」「女性離れしている」さらには「男らしい」といった“最大級の褒め言葉”を使っても、地獄耳で聞きつけてそれは怖い目でにらむのだ。

このサマーズ氏に、“学界におけるチーママ”みたいな米沢富美子(ふみこ)慶応義塾大学名誉教授がさっそく噛み付いた。米沢さんと言えば、1996年に女性として初めて日本物理学会の会長に選ばれ、世界物理年の今年には「ロレアル−ユネスコ女性科学賞」を受賞された。活躍の場は異なるが、主婦と母親業を兼ねる熟年の女丈夫という意味で、あの田中真紀子さんを彷彿とさせる(ここまで広げるとまずいかな?)。

米沢教授は、世界の耳目を集めた授賞式挨拶の場を選んでサマーズ氏への反論を試みた。「女性には直観力がある。しかも妊娠・出産を経験するため忍耐強さを持っている。これこそ科学にとって不可欠な要素」と根拠を掲げ、「良識ある男性は女性だからといって差別しない」とサマーズ氏を切り捨てて満場の拍手を浴びたらしい。

経済協力機構(OECD)の調査によると、日本の女性研究者の割合は02年現在で全研究者の10%程度。理工系に限ると4%に過ぎない。これがポルトガルやポーランドではほぼ40%、フランスでは30%。年々増えているとは言っても、日本はまだまだ低い。「女性研究者の前に立ちはだかる壁は厚い。多くの人に潜む心のバリアーを無くさなければ」と彼女は結んだそうだ(4月25日付日経夕刊)。

前口上が長くなる私の唯一の悪癖が顔を出した。本サイトの主題は、科学ではなく囲碁。日本、中国、韓国の女流プロ棋士の人数を調べるのは面倒くさい。女性に匹敵する我が直観力からすれば、研究者の比率に近いのではないか。肝心の棋力はどうだろう。某師匠の視線を感じてちょっとばかりふるえてきたが、この際サマーズ氏ばりの勇気を奮って続けよう。

『碁ワールド』誌によると、04年末時点で対男性棋士勝率が5割を上回っている女流棋士は梅沢由香里、小林泉美、青木喜久代の3人のみ。4割台を維持しているのは10人、そのほかは3割台以下に甘んじている。残念ながら、某師匠もその1人(女流棋士中17位)。成績上位の10人に絞って通算勝率を弾いてもやっと4割7分。アマの世界ならもっと差があるかもしれない。

女よりも「生存」に無関係なことにのめり込みやすい性癖と、それを容認してきた社会環境などを享受してきた男の方が、今のところきっと強いのだろう(も、もちろん例外はいっぱいありますが)。かささぎさんが添えてくれた写真には、水間七段にさっそうと挑戦する女流アマ界の猛女、N.Oのオバチャマの姿が見られるが、もちろん本稿とは関係ありません。

関連して思い出すのは、“稀代の警世の書”『石心の譜』。若き日の24世本因坊イッシー、25世本因坊チクン、大風呂敷のタケミヤセンセーらを相手に、今や女流大御所とも言うべきO川T子棋士が、今よりもはるかに清楚な感じを漂わせながら対話を進めた傑作カマトト問答集だ(ただし、今入手できるかどうかはわかりません)。

いずれ劣らぬ木谷門下の英才を自他共に認めるこの3人は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで一斉に棋界を制覇し始めた生意気盛り。やんわりはんなり、聞き上手のお姉様に甘え切って言いたい放題の数々。「女性の碁はどうしても視野が狭い」だの、「それでいて結構短気なんですよね」だの、挙句の果ては「じゃ、僕に2子で勝てます?」だの、気の小さい私は読みながらハラハラしっぱなしだった。

私は怖いもの見たさの心情につい負ける性格である半面、先述したように“男らしい勇気の持ち主”でもある。そこで恐る恐る、某師匠のご感想をご質問申し上げたことがある。某師匠とのその際のやり取りをご報告しよう。

まず、某師匠はこの本を知っていた。そしてダメ詰めを嫌われるご性格そのままに答はたった一言、「(この仕事は)私には決してできません」と斬って捨てた。あれ、これってもしかするとお怒り?その矛先は生意気盛りの英才たちではなく、カマトト大姉に向いていません?

と、まあ、ここで終えるつもりだったが、読み直すと私自身がいかにも女性差別論者に誤解されそうなことに気付いた。千寿会およびその周囲のいろいろな碁サークルにはたくさんの感じの良い女性たちがおられ、私もしばしば遊んでいただいている。このままではまずかろう。蛇足ながらもう少し目を通しておくれぃ。

握手した時の感触が名人・本因坊に似ていたギター弾き語りの盲目歌手、長谷川きよしさんは「男と女の間には深くて暗い川がある」と歌った。この世にあるすべての仕事、学問、技芸、競技にはもちろん「性差」がある。ノーベル賞受賞者にせよ、音楽・絵画にせよ、料理・ファッションにせよ、実績を見ればはるかに男が上回る。

では、男の方が優れているのか。どうもそれは逆らしい。オトコという動物は、女性には“コップの中の嵐”としか見えない瑣末な事象についつい囚われてしまう。「男児志を立て郷関を出たからには、もし学問が成らなければまた還らず」てな具合に眦(まなじり)を決し、仕事や名誉や社会改革やゲージツに“男子の本懐・人生の大義”を見出し、心と頭を一点に集中させてのめり込む。そのせいか、巧成り名を遂げた熟年者が自死するケースは圧倒的に男の方が多いのではないか。

「やわ肌の熱き血潮に触れもせでさびしからずや道を説く君」と与謝野晶子が詠んだのは一握りのユーシューかつマジメな男子を指しているのだろう。その対象にもならない不肖私めを含む大多数のグータラオトコは、目の前の刹那に暴走するかと思えば、一転して斜に構えたり、あるいはな〜んにも考えずに人生を流されて行く。

しかし、そんな平凡な男にも“オトコである病”(芥川賞作家の藤田宜永氏の命名)からは逃れられない。自己陶酔しながらお気に入りのノーガキを繰り返して家族の顰蹙を買ったり、子供の運動会で大ハッスルして腰を痛めたり、カッコをつけようとしていつも恥をかくことになる。

そこへ行くと女性は断じて違う。米沢先生仰せの通り、妊娠・出産して育てる性だからなのだろう、もっと大局に目がいくのだ。だからどんなに理屈は通っても、戦争や破壊に反対し、安定を望み、海のようにすべてを飲み込み、社会環境をゆっくりと改善していく。

「また一つ、女の方がえらく見えてきた」と歌ったのは、惜しくも若くして亡くなった河島エーゴだったか。シューコーさんはさんざ苦労をかけた古女房にすがりつく。純ちゃんやヤマタク、マスゾエ先生あたりだって、きっと似たようなものだろう。

数ある技芸の中で、性差が最も大きく表れるのはスポーツ。将棋は中間、囲碁は最も小さい部類だろう。現時点で碁が男性優位にあるとすれば、これはちょうど、囲碁後進国である欧米などが日本、中国、韓国、台湾に後れを取っているのと似た事情がありそう。女性も欧米人も碁にのめり込む機会が圧倒的に少なかったのだ。千寿先生らの努力が実を結んで、そのうち世界王者を欧州の天才が取ることも夢ではないというのが私の持論でもある。

亜Q

(2005.4.30)


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