囲碁殺人事件

著者 竹本健治  1980

「キミ、知能指数208だって。凄いね」
天才少年牧場智久をそう感嘆したのは大脳生理学者、須田信一郎だった。さらに、須田の助手の智久の姉牧場典子。この三人による、殺人事件の謎解き小説である。

「本因坊殺人事件」を最初の囲碁小説という人がいたが、わたしの記憶では、こちらの方が早い。読んでからもう25年も経つ。それを今、取り上げのは、ちょっと書きたいことがあったのが、再読して確認してからと延ばしていたからなのだ。それはともかく。

知能指数、現在ではあまり使わないようだが、昔はよく使われた。それも誤解して。さて、知能指数208の1000万人に1人の天才、十二歳の小学生、智久は昭和の小川道的といわれている。覚えて4年で七段格。この七段は本格的で、わたしのような碁会所○段とは違う。昭和の小川道的牧場智久はプロの渡辺二段にさえ白を持つほどなのだ。

 アマ五段がプロの4・5級くらい。
 アマ六段がプロの初段くらい。
 アマ七段がプロの五段くらい。

と読んだだけで、これは! と思った人はかなりの力量があろう。

謎も解くが、このような随所にちりばめられた碁の蘊蓄が素晴らしい。当時のわたしはこの本によって、知ったことがずいぶんあった。更にいえば、わたしが本を読むのは、その蘊蓄を読みたいがためといえる。

 刑事コロンボ「別れのワイン」ではワインの蘊蓄。
 「釣りバカ日誌」では釣りの蘊蓄。
 「美味しんぼ」では料理の蘊蓄。
 「マジシャン」ではマジックの蘊蓄。
 「狐罠」では、贋作の蘊蓄。

この本は碁の蘊蓄。

碁のルールは他のゲームと比べて驚くほど易しい。たった5条で説明している。将棋で同じことをしようとすると、ものすごい数になる(数百条になると聞いたことがあるが)。

それでいながら碁は難しい。理由は二つ。

 ゲームの基本原理と最終目標が別なところにある。
 そして死活の概念。

活きているといっても、それは相手の手に対して正しく打てばという仮定のことであって、その時点では活きているのではないことが多い。

なお、碁のルールは、この書が出た後で改訂している。わたしは長い間そのことを知らなかったのだが、逆に言えば、知らなくても問題ないほど微妙なことなのだ。紛糾を防ぐための判り切ったことの明文化に近い。それでもいくつかの重要な点がある。表現が変わると内容もそれにつれて変わる。「とらず三目」とか「隅の曲がり四目」とか。自分でも理解できないことは説明しませんが。

脳は、右ではアナログ思考で、左ではデジタル思考する。碁は最初はデジタル思考で始めるが、すぐにアナログ思考になっていく。いちいち読まないでも瞬間的に正しい手を判断するように。この変換は若い人ほど早い。そして上達するほどアナログ化している。

あるいは、碁盤の大きさ。

 一路盤はどちらも打てなくて、引き分け。
 三路盤は黒が真ん中に打って、8目勝ち。
 五路盤は黒が真ん中に打って、24目勝ち。
 七路盤はどうやら黒が9目勝ち。
 九路盤以上はだいたい黒が5〜6目勝ち。

となりそう。

あるいは、長生・万年劫・循環劫・三劫・取らず三目・隅のまがり四目・一手劫の手入れ・珍瓏、などを図示している。

この小説の眼目はある棋士の「純粋語盲」という奇病。意味判りますか。会話も正常、話も正しくできる、文字を書くこともできるが、その書いた文字を読むことができない。こんな病があったとは。高名棋士の揮毫をみて「何だ、このらくがきは。」その棋士の性格といわれたが、そのころから「純粋語盲」が始まっていたのだ。

牧場智久は七段格。姉の典子は3年で5級くらい。そして、覚えたての須田信一郎は典子に近い。6ないし7級程度。智久が須田に碁を教える場面がある。その途中で盤面を崩してしまう。ところが智久はそれをもとに戻すことができない。君くらいの強さなら覚えているのでは、と問われ、「そりゃあ、普段はね。印象深い対局なら何年たっても覚えているよ。でもそれは、一手一手に必然性があるからなんだ。弱い人と打った碁は、相手の手に必然性がないから、そうしようと意識してない限り、なかなか覚えられないんだよ」

さて、ここで問題。

 プロ級の人が、相手が7級程度の碁は覚えられないのだろうか。では本人はどうか。

(以下前に書いたことがあります。わたしは「一局覚えられれば初段」と聞いた。「それは昔の話、今では五段」とも。WWGoの掲示板で、この話をぶつけたら、(ここでも書いたとき、チン大人は「始めから覚えられた、……」といっていました)「覚えるのは難しくない、始めから覚えられました」などという意見が多く、「プロに近い人が、覚えられないとはあり得ない、その本はおかしい」ともいわれたのだ。)

最近こんな話を聞いた。級位者の会で指導に当たっていたプロの先生でも、弱い人の碁は覚えられなく、「もし(わたしが)覚えられるようになったら、それはあなたの碁がそれだけ進歩したことになります。」この境目はどれくらいだろうか。

念のためいうと、千寿会では千寿先生が指導碁に当たって、わたしの碁だけは覚えられないことがある。わたしの棋力はどれくらいなんだろうか。境目は越えていると思うのだが(^_^)。

たくせん(謫仙)

(2005.6.8)


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