ヒカルの碁 余聞

碁神は一柱だろうか。そもそも神は何柱いるか。キリスト教や回教では神は一柱だから碁神は存在しないか。碁はライバルがいてこそ楽しい。孤高の存在というのは酷く寂しいのではないか。

 「碁の神様って孤独だな」
 「だって自分と対等の相手いねェじゃん」

というヒカルの科白がある。この科白は新鮮だった。そんなこと思ったことなかったな。

江戸時代、名人碁所になると勝負が禁じられた。公式手合いを打たないだけで、それなりに打っているのだが、この状態はヒカルの科白にちかい。そう言えば名人は九段であり、別称「入神」。

 「韓国の棋士が“秀策は過去の人、学ぶことはない”と言っている。」

あるネット碁の掲示板で誰かが「韓国人の言いそうなことだ」と言って物議をかもしたことがある。もちろんその人はヒカルの碁を読んでいて、ヒカルの碁の話として言ったのである。わたしは、もともとSF小説もマンガも読み、虚構世界を楽しむことを知っているので、なんとも思わなかった。しかし、ヒカルの碁を読んでいないらしい人が「その発言は……」と噛みついた。思いもよらぬ抗議に不用意に言い訳したため、却って反発された。

わたしは週刊誌は読まず、単行本になってようやくそのシーンを読んだ。物語としてなんの問題も感じない。虚構世界を楽しむことを知らない人が大勢いる。つまり、そういう前提を知らないで読むと、確かに問題発言であったのだ。わたしもそのようなことのないよう、自戒せねばならぬ。

それから、碁はお互いが「誤魔化しをしない」という、性善説に依って成り立つゲームでもある。打ち方はともかく、整地作業は相手の作業を信頼する。もし誤魔化されたら、アマでは高段者でない限り見破れないだろう。ルールの悪用もある。インターネット碁なら誤魔化しようがないが、負けそうになると逃げる人がいる。逃げたって時間切れで負けになるのだが、相手が時間を待ちきれず切ってしまえば、無勝負になる。そんなことをして碁が面白いのか不思議だ。わたしには理解のできない人がいるものだ。

謫仙(たくせん)

(2009.4.22)


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