「奔流」の碁

 田中芳樹の小説に「奔流」がある。時代は南北朝の梁の武帝(在位502〜 549)の時である。
 この時代に淮河の中流域の鐘離で、鐘離の戦いという、中国史上最大級の戦いが行われている(506〜507)。梁の建国まもないころである。
 北朝の魏軍八十万。対する南朝の梁軍二十万は、降り続く雨を味方にして、陳慶之らの活躍で魏軍を撃退した。
 この陳慶之だが、武帝(蕭衍しょうえん)に建国前から仕えていた。子供のとき、蕭衍の雑用をしていたのだ。(以下赤字は原文のまま)

P23
 ある日、蕭衍は退屈をおぼえ、庭園に出たところ陳慶之が孔雀に餌を運ぼうとするのに会って、囲碁の相手をさせることにした。
 武芸と同じく、囲碁は、初心者が熟練者に勝つことはまずありえない。蕭衍としては本気で陳慶之と勝負するつもりなどなかった。どこまでも時間つぶしの遊びのつもりで、石の置き方を教え、白石を持って悠然と打ち始める。かるくあしらううちに、油断して、まずい一手を打ってしまった。
「こいつはまずい手を打ったな。ここを突かれれば私の負けだが……まさか子雲めが見抜くことはできまい」
 そう蕭衍が思っていると、黒石をつまみ上げた陳慶之が、実に自然な動作で、盤上にそれを置いた。蕭衍は愕然とした。陳慶之が黒石を置いたのは、そこに置かれてはまずいという唯一の場所であった。
 いささかあわてて、蕭衍は次の手を打ったが、互いに五手ほど打ち合うと、蕭衍の形勢がいちじるしく悪くなった。ついに蕭衍は追いつめられ、敗北してしまったが、むろん納得できるものではない。

この時、蕭衍三十三歳、陳慶之十三歳であった。
…、たてつづけに七戦して、蕭衍の二勝五敗。完璧に事を運んだときには蕭衍が勝ったが、わずかでも失策したときは、ことごとく敗れた。このあとおかかえ棋士を呼ぶ。

「これは囲碁の勝敗を見るのが目的ではない。ゆえに命じるのだが、一度だけ悪手を打て。そしてそれ以外は決して手を抜いてはならんぞ」

 そして命令どおり悪手を打つのだが、
 …悪手といえど、容易に凡人につけこめるものではない。それが悪手と気づく者すら少ないであろう。だが、つぎの瞬間形勢は逆転していた。最初はおやといいたげであった棋士の表情がみるみる変わり、あわただしく防戦に努める。やがて面目なげに棋士は投了し、…

 そして十年後、陳慶之は梁の武帝となった蕭衍の将に任命される。白馬三百頭で一軍をつくり、その隊長となる。
 戦いの途中で相手が乱れ、いまあそこを突けばわが軍が勝てるというとき、いきなり白馬三百騎が現れそこを突く。それを繰り返し陳慶之隊は連戦連勝することになる。後には白馬三百騎が現れたというだけで、敵が勝手に崩れていくほどになる。
 陳慶之は生涯無敗。

 もちろん田中芳樹の小説であり、青史では、陳慶之は鐘離の戦いには登場しないらしいし、無敗でもないらしい(わたしには確かめることはできない)。正史はどうだろう。
 それにしても五十万もの大軍が犇めく中に、ここぞと言うときにいきなり登場する、などということができるだろうか。そして陳慶之の特徴を表現するためとはいえ、上の碁の記述はありえないだろう。
 蕭衍は有能で王朝を建てるほどの才能の持ち主、おそらくは有段者であろう。決して初心者ではない。お抱えの棋士は、アマとしても高段の力があると思う。初二段ではなかろう。
 そのような棋士が、その日に石の置き方をおぼえたばかりの少年に、一手のミスで負けることは考えられない、あり得ない。それ以外は手を抜いていないのだ。碁を知らない人はそんなものかと思うだろう。しかし、実際は一手のミスのはるか前で碁は終わるだろうし、そもそも、少年が間違えないこともあり得ない。
 ヒカルの碁で、ヒカルが碁を覚えるまでどれほどの時間がかかったか。陳慶之は藤原佐為より前の時代の人のようだし(^_^)。
 著者の田中芳樹は本当に碁を知っているのか、意味が判って書いているのか疑問に思ってしまった。しかし、

武芸と同じく、囲碁は、初心者が熟練者に勝つことはまずありえない。

 と記述していることが気になる。意味が判って書いているようでもある。陳慶之隊の性格を実に上手く表現したと思う。が、しかし碁は………。

 武侠小説として読んでみるか。ちなみに田中芳樹さんは母上に「武侠小説とは」と問われて、「中国の立川文庫」と答えたという。「座布団一枚!」だ。
 金庸の降龍十八掌(謫仙楼対局に出てきた亢龍有悔・飛龍在天など)は、わたしの年代なら、赤胴鈴之助の「真空切り」だ。大傷や骨折も秘薬を付けると一瞬で治ったり、馬よりも早く走ったり、水の上を走ったり。そのつもりで奔流の碁の記述を読むと…………やっぱり無理だ。

参考 奔流

謫仙

(2009.6.12)


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