碁は無限なり、個を立てよ

 雑誌『選択』最新号(11月1日発行)に連載されているシューコー老大人のエッセイから。老大人は坂井秀至、結城聡、森田道博らのほか、千寿会の非常勤講師・ジョー、新婚ナッチが愛する旦那様シンディー(高尾)らの恩師、と言うより、小林ファミリーも含めて日本で碁界中興の祖でもある。

 筆者近影の表情から、失礼ながら男も女もやっつけまくった往年の面魂をうかがうことはできない。来年傘寿を迎えるフツーの老人。しかし、言うことは今なお意気軒昂、老醜の始まりを自覚する私にも元気をくれる。
 「老いてなお進化するものがある、それが囲碁」などと、私は前の原稿で利いた風なことを抜かした。『選択』を読んでいない大多数の読者に、言い訳を兼ねてシューコー老大人の言葉を送ろう。

 老大人は最近(この9月)、「(長旅だから家族には反対されたが)昔の教え子たちに請われて」中国に出かけたのだそうだ。呉樹浩という12歳の天才少年が現れ、九段クラスがたじたじだから、少年の碁を見て欲しいと言われたらしい。
「ひと昔もふた昔も前から中国や韓国に出かけているが、どちらが教え、教えられたのか、わかったものではない。呉少年の碁を見て、一層その感を強くした」と老大人。「この少年は突然変異現象ではなく、広大な中国にはそのライバルやら、予備軍やらの年端のいかない連中がいっぱいいる」と思い知らされたと言う。以下はシューコー老大人の記述から抜粋した。

 中国は日本の人口の10倍以上で、とにかく層の厚さがすごい。「これでは敵わん」と私も思うことがあるが、日本の人口の半分に満たない韓国を見れば母数の問題ではないことが明らかだ。いつ頃から彼我の差が出てきたのか。私は第一期棋聖位を取った昭和52年ごろから中国や韓国に定期的に出向き始めた。当時日本で相当な打ち手だった棋士を連れて行くと、中国でも韓国でも迎え撃つための相当な準備をしていたものだ。うんと若い頃のヨタロー名人も連れて行き、こちらとしてはいい気分で出かけたのだが、当時実際にそれほどの差があったのか。日本側が気付かなかっただけではなかっただけではないか」−−。

 私はことあるごとに、「中国、韓国の馬蹄の響きが聞こえずや」と警鐘を鳴らしたつもりだが、誰も耳を傾けようとしなかった。「“馬耳東風”とはまさにそういう状態を指すのだろう、仕方がないから私は熱意のある若い連中と一緒に勉強することにした。それが79歳の今日まで続いている」。

 拙宅居間の私の座卓の背中にある10ほどの引き出しのある整理棚には、坂井秀至、高尾紳路、結城聡、森田道博らの弟子たちから届いた棋譜が2,30局分ぐらいずつ詰まっている。私が目をかけているこれらの棋士と比べても、韓国、中国の一流どころと言われる人々の碁に対するひたむきさははるかに優る。日本の棋士だって世界戦では時には勝つ。武宮君の宇宙流だって韓国、中国でもまだ結構人気がある。しかしあちらの一流棋士は、負けるとは思っていないだろう。

 「人間が打つのだ、だから人間を高めなければならない」と私はずっと考えてきた。碁の相手も人間だが、自分も人間、この人間が何者で、何をしようとしているのかを確認しなかったら碁は打てない。人間を磨けなどと言えばおこがましいが、世界のトップを目指すなら楽をしていたらダメだ。
「本を読め」と私は若い人たちに言う。人間を高めるためである。「碁は無限なり、個を立てよ」−−。老いたる私の口癖だが、思えば至難なことである。

 若い頃の蓄積は必ず歳を取ってから実る。だから私は、たとえば坂井にこんな厳しいことを言う。「序盤はヘボ、中盤はへたくそ、寄せはダメ」と。坂井に限らないが、私の背中に入っている彼らの棋譜を眺めてハッとする着手にお目にかかることが少な過ぎる。

 それで昨今は碁の勘を取り戻すために若い頃の自分が打った棋譜を思い起こすことがある。当時“オニチヨ”と言われた強豪、小野田千代太郎との16歳の時の1局を今一通り並べてみている。私の二子局だが、序盤で打った定石外れの一石に皆から「すごい」と言われた手がある。なぜあそこに石を置けたかと、自分でも不思議に思う。今の私だって打てるかどうかわからない。若造で、まだアマチュアに近かったから、打てたのかもしれない。プロの碁打ちたちに、平生私が「3歳の童子なりとも導師なり」と言っているのも、あの碁の一手を思い出すせいか。

 置くべき石の位置がひらめいた時を、60年以上経った今でも忘れないでいるのだから、碁は命があるものだし、その一手一手に精魂を打ち込む値打ちがあることを私は確信している。

亜Q

(2004.11.3)


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