カンサイ弁効果

トーキョー弁を模範的標準語と思いなし、我ながら清く正しく美しく使いこなしていると澄まし込んでいるのは考えもの。「亜Qはいい人だけど、ちょっととっつきにくくて」なぞというチマタの声にちゃ〜んと気付いていなさるのだ、私のバヤイ。

そんな時の救世主がカンサイ弁。「本音/建前」「町人/武士」「実利/名誉」「開放/抑制」「洒落/謹厳」「軽み/重み」。トーキョー弁もカンサイ弁も狭い日本一国の言葉なのに、まるで異国の言葉みたいな対照ぶり。だから、トーキョー弁からカンサイ弁に切り換えるだけで、劇的なまでにすばらしいことがたくさんある。

トーキョー弁では言いにくいこともカンサイ弁ならいとも簡単。「バカ」と言えば血を見るところを「アホ」と言い換えれば、なぜか言葉だけが上滑りして何事も起こらない。トーキョー弁では憚るようなヤラシ〜ことや歯の浮くようなことだっていくらでもしゃべることができる。「謹厳実直で重厚一路」と思われていた人間が実は「軽妙酒脱で融通無碍」な人格も併せ持っていることがわかれば、それだけ魅力が増すというものではないか。

このご利益が最大限に発揮されるのがほかならぬ碁だ。例えば絶不調に陥った時に使うなら、まずは挨拶から。「ほな、お手柔らかによろしゅうおたの申します」、この一言でいい。ひとたび石を打ち始めても、この姿勢で突っ走る。「あ、いやや、ほんまにいけずやな〜」やら「ようわからへんけどいってみたろやないか」など始終しゃべくりまくる。相手が怪訝な表情を浮かべても迷惑そうな顔をしても知らん顔を通せばいい。

いつしか、怖れとかためらいといった勝負に百害あって一利もない無用な感情が消え失せ、石が伸び伸びと躍動し始めるではないか。何よりも、自分の石が決して重くならない。時に厚かましく、時に軽はずみに結果に責任を負うことなく、本能の赴くまま奔放に打っているから。相手はほとんどの場合調子を崩し、勝手にコケテくれる。ザル碁ならではの法悦を満喫できるのはこんな時だ。

もっと高度な裏技もある。この私に何連敗もして、「また負けたら碁をやめよう」などと思い詰めている碁敵との対局。いつも通りに打てば私が勝ってしまうから、自らカンサイ人に豹変する。相手は連敗しているうちに同じようなミスを繰り返している。この悪循環をカンサイ弁で解きほぐしてあげるのだ。私の変身に気付いたかどうか、碁敵はいつもと違う感触を得て自縄自縛に凝り固まった衣を脱ぎ捨て、いつの間にか私に勝つ。かくして私は多数の友人を失わずに済んだ。

と、まあカンサイ弁効果の一端をご披露したが、あいにく、どうしてもカンサイ弁をマスターできない方が少なくないのも事実。私のようにカンサイ弁を流暢に使いこなすには、言葉に対する類まれなる感性と機会あるごとに(つまりカンサイへ行った折とかカンサイ出身の人と話す時)積極的に喋りまくる努力を続けられる才能がなければ無理なことはよくわかっている。だからこそ、こうしたカンサイ弁弱者を冷たく切り捨てることは私にはできない。そんな諸兄のために、いいことを教えて進ぜよう。

自分、すなわち第1人称を変えるだけでいい。仏になるための修行は並大抵の努力と才能では成就しない。ならば衆生の皆さんは「南無阿弥陀仏と唱えるだけでいい」と苦しむ庶民を救った法然さんになったつもりだ。これまで「僕」とか「私」を使ってきた人は、「わて」やら「わい」やら「おいどん」やら「吾輩」やら「俺様」やら、好みのものを選んで使うたらええ。女性なら「わらわ」なんてのはどや。カンサイ弁はよう使えんかて、これだけで十分ご利益があるデ。何しろ、別の人格を自らの中に発見できるのやさかい。明日からと言わず、いますぐ始めてみなはれ。

こうした私の献身が報いられて、トーキョー弁とカンサイ弁を多重活用する重要性に周囲も目覚めてきてくれた。ただ、ごくまれにではあるが、「亜Qのカンサイ弁はどこか違和感がある」だの「気色が悪いからやめろ」だの心ない評価をいただくこともないではない。そんな時私は鷹揚に微笑みを浮かべ、「どーぞ、こらえてつか〜さい」などと低姿勢を貫くのだが、家に帰れば本音がこぼれる。「こうしたご意見は、流暢な英語をしゃべる日本人に対する時と同様、言わば“羨望”と“軽い嫉妬”から一種の不快感が生じるのだろう、ま、わからんでもないがの」。ところがいつ聞きつけたのか、古女房のやつが口をポカンと開けて目を丸くしている。思わず私は声を荒げた。「何や、そのあきれ果てたような目つきは。何でやねん!」

亜Q

(2008.12.8)


もどる