木下強豪・吐血の譜(その1)

ケン・コーポレーションKN西麻布ビル

先日、梅沢由香里五段とトップアマの木下暢暁(ながとき)氏(38)の互先対局を観戦する機会があった。女流棋聖2期などの実績を誇る由香里姫は、東大で石倉七段らとともに囲碁講座を主宰する教育者でもあり、セドル、チャンホ、コーケツらとともに世界一、二を争う人気棋士でもある。私生活では先ごろJリーガーを引退された吉原慎也選手の内助の功を務め、野菜作りにいそしみながら千葉の田舎生活を楽しむ主婦の顔も持つ。一方の木下さんは、京都大学在学中に1年後輩の坂井秀至碁聖と切磋琢磨して学生名人にも輝いたトップアマ。現在は日本の研究開発の総本山・理化学研究所に勤務、千寿会のかささぎさんの後輩研究者でもある。

主催者は『月刊囲碁』をはじめ、科学、趣味、実用など幅広い分野の書籍、雑誌を発行する誠文堂新光社。本対局は女流トッププロと精鋭アマ各12人が名誉やら意地と面子やらを賭けて年間勝負を決する同誌の名物企画だ。スポンサーは高級賃貸仲介業務に特化して高度成長を果たしてきたケン・コーポレーション。KN西麻布ビルの地下一階のサロンルームを対局室に仕立てて会場を提供された。

広い卓の中央に据えた脚なし碁盤を挟んで機能的な肘掛け椅子に両対局者。上座の由香里姫から見て右手の長机に棋譜記録、時計、観戦記者3名、左手の観戦席にかささぎさんと私が座る。対局者からの距離は1.5mぐらい。姫の吐息を直接感じて息苦しくなるほどだ。持ち時間は各2時間、使い切れば1分間の秒読み(回数は無制限)。握りの結果、姫の黒番で対局開始――。

ケン・カップの様子

以下、誠文堂新光社のご厚意を得て、総手数211手に及ぶ熱戦のさわりを紹介させていただくが、対局のあった7月17日(土)は、トップアマと院生らが月1回集まって月間タイトルを競う「ケン・カップ」が隣の大広間で行われていた。参加者はざっと50~60名ほど。将来プロを目指すと言う母親連れの女の子の姿も見えた。

ケン・カップの世話人をされている野島正夫さん(有限会社サンサン代表取締役)にうかがうと、同カップは、早稲田大学囲碁部でトップアマの実力を磨き、33歳でケン・コーポレーションを創業した田中健介社長(71)がトップアマや若い院生たちを支援するために立ち上げたユニークな棋戦。数次にわたる大型不況、バブル崩壊、リーマンショックなどを乗り越え、今では年商200億円、500人の従業員と内外に高級マンションやホテルなどの資産を持つ。

企業経営には囲碁で培った理念が随所に活かされている。囲碁で磨いた論理学、危機管理学、分析学、先見学などを駆使して“一強百弱”とも言われる高級賃貸仲介業の雄に駆け上がった。そしてその収益の一部を囲碁の研鑽に努める若いアマチュアに惜しみなく分かち与える。若干の参加料はいただくが、昼食夕食・飲み放題の無料自動飲料販売機、さらに16名単位のグループごとに優勝、準優勝、1敗賞が振舞われるから、「主催者の完全持ち出し」(木下さんの証言)。

大会の運営法は、どうやらケン・コーポレーション本社の人材教育の考え方をベースにしているらしい。田中社長は自分の会社を「ケン社会人大学」と称し、自らを「学長」と位置づけている。「戦後の日本人は、戦勝国の米国に押し付けられた教育基本法に基づいて育ち、戦前まで日本にあった徳育教育を含むすばらしい部分がかなり抜け落ちた」と見る田中社長が、この抜け落ちた部分や人間形成に必要な知識や見識、世の中の見方などを社員に伝え教える。もちろん、「ケン社会人大学」には卒業はなく、社会人として人間として、一生をかけて自分を磨き上げるように要請している。

その分「信賞必罰」、特に表彰に力を入れている。優秀な社員はもちろん、リストラ候補になりそうな弱い社員に対しても、本人にとって自分の過去の記録を少しでも上回る業績を挙げた場合、「よく頑張って殻を破った」と褒めて表彰する「自己ギネス記録」というユニークな表彰制度も実施されている。

本ページで以前紹介させていただいた大坪英夫氏は赤字企業を立て直して収益の一部で女流棋戦(東京精密杯女流最強戦)を立ち上げて大倉喜七郎賞を受賞されたが、方法は違うけれど、経営と囲碁に対する愛情と社業・碁界発展を願う思いは田中氏も同一だと思う。

今回は木下さんの“吐血の譜”を書くつもりだったが、対局を後援されたケン・コーポレーションおよび田中健介社長の志に触れるうちにいささか長くなってしまった。次回に、かささぎさんと私を聞き手にした木下さんの自戦解説をお届けさせていただきたい。

亜Q

(2010.9.6)


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