日本碁と日本語の相性

 碁に対する思い入れがひとしお深い面々が集う千寿会の目的は、会員の棋力向上だけではない。少々口幅ったいようだが、“碁に関連した文化論”らしきものをめぐってしばしば座が盛り上がる。水を向けるのはいつも千寿先生自身。9月初めの千寿会で何やら含蓄の深そうなことをのたもうた。
「千数百年もの間、日本で碁が発展してきたのは日本語との相性が良かったからではないかしら」――。

 長年続けてきた海外で囲碁普及活動の場で囲碁用語を翻訳する時につくづく感じるのだそうだ。日本語は囲碁に便利な表現方法がたくさんあるのに、英語ではなかなか伝えきれない。だから良かれ悪しかれ、「“日本語”こそが“日本碁”のルーツなのかもしれない」とニッコリ。今月誕生日を迎える先生は、(寄る年波のせいか)オヤジギャグが得意技になったみたいだ。

 言われてみれば、たとえば一般的には悪いイメージを形容する「いい加減」との表現。碁では「相場」とか「いい分かれ」に近く、「黒白とも不満なく打てる」という感じだろうか。奥が深く茫洋とした碁の価値観を、無理やり型にはめて定量的に規定するようなことはしない。日本語独特の婉曲な表現ではあるが、聞き手はあくまで「ぼんやりとあいまいに」共感できるのだ。

 大盤解説などで最も頻繁に使われる「重い・軽い」という表現もなかなか意味が深い。「重い」からといってどの程度悪いのか、「軽い」からいって、具体的にどんな利点があるのか。なまじなことでは初級者にうまく伝えるのは難しい。少なくとも定量的には説明できまい。碁の機微に触れるようになって初めて、これほどぴったりした表現はないとようやくわかってくる。

 別の例を浮かべてみれば、「押し」「伸び」「引き」「下がり」「並び」といった言葉群。いずれも自分の石が二つ以上並んだ状態に打つという意味は同じだが、ニュアンスはまるで違う。「それぞれをきちんと区別できれば初段」とも言われるぐらい、繊細な使い分けが求められる。アマチュアでもそうした日本語の感性が備わらなければ、いっぱしの碁打ちにはなれないのだろう。

 逆に碁独特の表現が日本語に一般化されている例も少なくない。「駄目」「布石」「捨石」「手順前後」「大局・小局」「着眼・着手」「岡目八目」「劫(未来永劫など)」。碁が日本語の影響を受けたように、日本語もまた碁から影響を受けた面もあると言えるのではないか。

 別名が多いのも碁の特徴。ヒト、モノ、事柄を問わず、世界中でこれほど愛称が多いものはあるまい。「烏鷺」「甲長」「方円」は磐石の色や形から呼ばれるようになったのだろうか。中でも囲碁の特徴をずばり言い切っているのは、文字通り、手での対話を意味した「手談」だと思う。このほか、橘の実を割ると中で仙人が碁を打っていたという「橘中(きっちゅう)」、深山幽谷に迷い込んだ樵(きこり)が仙人同士が打つ碁に見とれて幾星霜。気がつくと自分の斧が腐っていたという「ランカ(“腐った斧”を意味する難しい字だけどパソコン初級者の私には出力できません)」などは、中国の故事から生まれたらしい。
 まだまだあったはずだが、乏しい私の脳細胞では思い出せない。後学のため、このほかの多数の表現を掲示板に寄せてほしい。

 こうしてみてくると、確かに日本語が“碁の雅(みやび)”を育み、日本独特の“棋道”を発展させてきたのは間違いないように思える。外国籍棋士だって日本で切磋琢磨した経験があれば、日本棋士に劣らず理解しているだろう。ゴセーゲン、カイホー、チクン、オーメン、リッセー、チョーウ、韓国に帰ったチョ・フヒョン、さらに千寿会にも登場したソ・ヨーコク(本因坊リーグに初見参!)、情報化社会と碁の関係を修士論文にまとめた王ユイニン、解説でも活躍のコーモーセー、いずれも日本人以上に日本語が達者だ。

 では、千年以上にわたって日本の碁を育んできた日本語は、碁の強弱にはどう影響しているのだろうか。ここ10年以上にわたって、日本の碁は日本語など知らない韓国・中国若手軍の前に劣勢に立たされている。中国語の文法は英語と似ているそうだから、細かいニュアンスよりずばり結論を言い切りやすい。あいまいな余韻に浸って自己満足せず、黒白をはっきりさせることこそ勝負と主張しているようにみえる。韓国語はどうだろう。中国語以上に勝負に苛烈さを求める言語なのだろうか。

 当サイトではこの謎に迫るため、急遽かささぎ特派員が現地に赴いた。週末にはきっと多大な成果を挙げて帰国されるだろう。報告を期待して待つことにしよう。

亜Q

(2004.9.9)


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