緩やかな運用

 北京五輪で“ママでも金”を目指した谷亮子さんがルーマニア選手に敗れた日、ルーマニア出身の千寿会友、バリー君だけは大喜びしていた。勝負事は負ければ確かに悔しいけれど、勝者に幸せをプレゼントすることができる。そんな風にエラソーに達観していたら、先日ながめた経済誌でスポーツ評論家の二宮清純氏が下記のような論旨で審判の手際を批判していた。

 準決勝に勝ち進んだ両者は相譲らず、共に指導ポイントを1つずつ取られ合って互角のまま制限時間が残りわずかになった時、主審が突如笛を鳴らして谷選手だけに指導を与えた。上背に恵まれたルーマニアの選手は谷選手の奥襟をつかもうとし、谷選手は終止それを防ごうとしていたのは確か。「負けない柔道」を心がけたのが裏目に出たかもしれないが、それを「指導」に該当すると見た主審の判断自体は異議を差し挟むことはできないと思う。

 でも、残り30秒を切ったあそこで笛を鳴らすのはあまりにも「愛情がない」ではないか。最も軽い減点ではあっても、あの時点では決定的な措置になる。世界の檜舞台に立つ五輪の主審たるものはそうしたことも配慮するべきではなかったか。どちらかがポイントを挙げれば即勝敗が決するサドンデスで、いずれ劣らぬ両者の死闘を是非とも見たかった。(以上、うろ覚えのまま要旨を再録)

 日頃明快かつ理知的な評論を展開される二宮氏にしては、これはまた何とも情に訴えかけた言い草。でも、温情一路の私はモロに共感する。競技審判は次々に展開する競技の節目節目で瞬時かつ的確に判断し、毅然として実行していくことが求められていることはわかるが、見る人によってどちらとも取れるような微妙な状況はしばしば起こるし、審判が絶対間違えないという保証もない。

 だから各種競技の中には、主審のほかに副審を置いて随時相談することが許されたり、複数の採点者の評価を合計する際に最高点と最低点をカットする方法も講じられたりしている。もちろん、柔道もその一つだ。谷選手の場合に戻れば、少なくともあの時点で主審はタイムを取り、副審と相談しても良かったように思う。

 副審との相談や最高・最低点カット方式がない競技の場合、その際の判断が結果に決定的な影響を及ぼしそうな時には、自分の判断権限をなるべく抑制気味に使う方が良いのではないか。真剣勝負の前であくまで謙虚に、そしてちょっぴりエンターテインメント性を尊重して。

 これを碁に当てはめれば、「秒読み」がぴったり。千寿会講師の水間俊文七段はテレビの囲碁番組を多数こなされた“名秒読み役”でもあったが、その水間七段も「時間切れ」を宣告した経験はないそうだ。だからチクン、リンカイホーといった長考派の大棋士の対局ともなると「25秒,6,7,8,9」ではなく、しばしば「ろ〜く、なぁ〜な、はぁ〜ち、きゅ〜ぅ〜」となったらしい。大長考派の誉れ高き梶原オワ先生や橋本昌二さんらの昭和の名棋士ともなると「9」の後に「お打ちください」が入ったと言うから、実際は5秒ぐらい長くなっていたかもしれない。

 ルールを厳格に運用すれば、もちろんこれは「切れ負け」だし、“悪しき習慣”を正していく効果もあるだろう。でも優柔不断な私から見れば、いきなり断罪されるのはやっぱり「カワイソー」と思えてしまう。ルールを運用する人間はしょせん神様でも閻魔大王でもない。世知辛い浮世を少しでも滑らかに回していくには、何ごとも「緩やかな運用」の方が好ましいのではないかな。

亜Q

(2008.8.30)


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