そうだ、マイルスを聴こう!

11日の千寿会で久しぶりに「カモメのジョーさん」に教えていただいた。序盤からあちこち食いちぎられながらも、「碁盤の半分以上の空間の主導権を握る」オーメン譲りの私の策戦通り、中盤から終盤への入り口で黒の厚いヨセ勝負になるはずが、突如としていささかヤケ気味に見えるジョーの殴り込み。多少妥協しても良さそうだが、仲間の披露宴で昼間に飲んだ酒が邪魔して頭がまとまらない。「エイッ、ここで投了です」と石を置くと、ジョーは目を丸くして「ここから手番を替えて打とう」とニヤリ。いつの間にか千寿先生もそばへ来て「ここでこう打ったら白は困っていない?」などとザル碁を突っつき始める。

私には、指導碁は勝負を早めに見切りを付けて手直しを大切にしたいという思惑がある。そろそろ大盤解説の時間も近づいているから時間を効率的に使おうとの配慮も当然あったが、実はそれ以上の深い理由があった。碁を愛する天才ジャズピアニスト山下洋輔さんからいただいた考え方である。山下さんは玄人はだしのドラマー片岡聡元天元と共に、何百人もの聴衆の前でジャズを競演したり模範対局(解説は千寿先生、文字通りゴージャズなイベントでした)を披露したこともある千寿先生の古くからのお弟子さん。

山下さんはエッセイも良くされる方で、『ピアニストを笑え』という著書の中で、フリー・ジャズの巨人と言われたセシル・テイラーが73年に東京の厚生年金会館で演じたコンサートに触れている。競演はアルトサックスのジミー・ライオンズとドラムスのアンドリュー・シリル。演奏されたのはわずか1曲。演奏時間は実に83分!音のうるささと迫力において空前絶後と言われた伝説のコンサートで、CD2枚組のライブアルバムが残っている。この演奏を聴いた山下さんが、その時の感想をこう書いている(以下敬称略)。

演奏のラスト近く(と言っても聴衆は、その演奏がいつ終わるかわかっていない)、サックスのジミーが吹き疲れて舞台からいなくなり、しばらくピアノとドラムスによる演奏が続いていくのだが、テイラーは突如ピアノの鍵盤を激しく叩いたかと思うと、唐突に演奏を終わらせてしまい、ドラムスがあわてて1拍遅れて演奏を終える。だからCDでもトトトンッという取り残されたドラムスの音が入っている。そしてさらに舞台の音がやんで、「え?終わったの?」という沈黙(というか、“音の隙間”)がもう1拍あってから、「ウオーッ」という大歓声が沸き起こる。

このエンディングについて、山下や一緒に聴きに行っていた仲間の森山威男(ドラムス)、坂田明(サックス)は「あんなに圧倒的な演奏だったのだから、最後はみんな揃ったところで仲良く終わりたいよな」みたいな感想を言い合う。しかし後になって山下は次のように思い直した。

セシル・テイラーは、圧倒的な演奏であれば、どこで切っても圧倒的だと考えたのではないか。結末がどうのこうので左右される問題ではない。どう終わっても圧倒的なものは圧倒的なのだ——。

サル碁の私が解釈すれば、作品には作品固有の運動(固有振動みたいなもの?)がある。言い換えれば、それ固有の運動を持った時に、今つくりあげているものが“作品”となるのだろう。ここまで書けば、我ながら悦に入る。唐突に投了した碁を、ジャズの巨人と天才ピアニストを引き合いに出して何ときれいに美化するものか。これも年の功だろう。ククク

そうそう、ジャズと言えば昔(と言っても20世紀の後半だが)、マイルス・デイビスギル・エヴァンス(ビル・エバンスではない)が「モード奏法」を編み出してジャズを革新した。それまでは「コード奏法」が全盛で、天才チャーリー・パーカーが誰よりも早くコードを転換して、超人的なプレイを聴かせた。しかしこのコード奏法には、CからGに行くのはいいが、Aには行けないといった制約があったらしい。マイルスとギルは、それがジャズから自由を奪っていると考え、コードという概念を取っ払い、ある音階だけを決めたら、音は自由に出して良いというモード奏法を創造したという。

フーム。これって最近話題になった「予定調和」をぶっ壊す考えではないか。私は以前に、「予定調和こそ日本の誇り」みたいな立場に立ったが、何、君子は豹変(大人は虎変?)する。ジャズについて語った舌の根が乾かない今の私には、常識になずまず未知への森に自ら入り込む勇気と挑戦こそが尊いものだと思えてくる。この際、日本の棋士、特にこれから中韓勢と互角以上の勝負をして欲しい四天王、河野新天元、井山アゴン杯者らは毎日マイルスとギルを聴きませう!

亜Q

(2006.2.20)


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