萬方為友

「萬方為友」呉清源書
「萬方為友」呉清源書
神髄は調和にあり −呉清源 碁の宇宙−
水口藤雄 著  2003.12.20
を読んだ。呉清源師の一代記である。

齢すでに90歳になるのに、碁の研究を続け、二十一世紀の碁を提唱している。江崎誠致さんの「呉清源」は実録小説であるが、こちらは写真と棋譜を伴い、記録を中心としている。呉清源さんについては、信じられないようなことが幾つかある。その一つは、日本棋院から除名されたことであろう。なんと、本人は除名されたことを20年間も知らなかったという。そして、本人から復帰の願いがあれば、いつでも復帰できるようになっていたらしいのだが、除名されたおぼえのない呉清源さんにしてみれば、棋院が除名を取り消せば済むことなので、復帰の願いは出さない。 で、そのまま現在に至っている。ただし、呉清源さんは正式に引退しているので、もはや復帰することはない。そんなわけで、誰もが昭和の大名人と認めるのに、無冠のままだ。

中国の碁は長い間四隅に石を置いてから対局を始めた。呉清源さんの子供の頃の棋譜にもある。してみると、中国の近代碁の歴史はまだ百年ほどらしい。 しかし、日本ではかなり昔から、互先は初手から自由に打って対局していた。 その他、資料としてはかなり利用できると思われる。

この本で「莫愁」にふれたくだりがあるので、全文を紹介する。莫愁、バクシュウとかなをふっているが疑問点がある。わたしは今までモシュウと読んでいた。意味は「愁うなかれ」である。

本文172頁

呉清源さんの著作のなかに随筆『莫愁(ばくしゅう)』があるが、明の太祖(朱元璋)が元勲の徐達に打ち負かされたのが南京の莫愁湖であり、この湖の中島に「勝棋楼」が建てられている。この著作の題名はこのエピソードからではなく、時代を二千年もさかのぼり舜帝の死に臨んだ二人の妃が悲嘆の歌を歌い終わって、この湖に身を投じたという故事にちなんで名付けたものである。

この文、何度も読み返してしまった。

 「…「莫愁」があるが、……「勝棋楼」が建てられている。」

?である。そして問題はその次である。

 「この著作の題名は……故事にちなんで名付けたものである。」

莫愁には、次のような意味の文がある。

 二人は三昼夜哭き、涙がつき、血が流れた。
 その血が丘に生えていた竹を斑に染めた。
 そして湘水を視て等しく江中に投じて果てた。
 今でも斑の竹は彼の地の名産であるという。

この内容は碁の起源についての記述の一部分である。ここには莫愁の文字はない。 その後に一行あけて、次の記述がある。

南京に莫愁(もしう)湖と言ふのがある。大きくはないが、暮風に錦波寄せて汀に打ち伏す蘆荻に、秋思が漂ふ。昔、莫愁と言ふ若い嫁が身を投じて死んだといふ傳説があるので、この名を呼ばれるのであるが、梁の武帝は

   河中之水向東流
   洛陽女児名莫愁
   莫愁十三能織綺
   十四採桑南陌頭
   ……

と歌った。愁(なげ)く莫れ、共に愁くまい。

とある。呉清源さんは、莫愁の語源を「莫愁という若い嫁」とし、莫愁(もしう)湖とかなをふっている。

著者の水口氏は、本当に「莫愁」を読んだのであろうか。
(莫愁−中央公論社−昭和二十九年復刊)

たくせん(謫仙)

(2004.5.5)


もどる