莫愁(もしゅう) 呉清源  中央公論社  昭和29復刊

 南京に莫愁湖という湖がある。もし機会があったら立ち寄ってみたい。といっても、特に風光明媚というのではない。
 わたしがこの名を知ったのは、呉清源さんの「莫愁」を読んだときである。この莫愁は呉清源さんの、若いときの心情をよく表している。ただし誤解のないように断っておくが、自ら筆をとって書いたのではない。呉清源さんの話すことを他の人が筆記したものである。

 こんな文がある。
 『日華事変が早く終わつて、もとの平和の日がくれば、私は再び風光明媚な太湖に舟を泛べたい。』
 舟の上では、日中に限らず世界中の棋客が碁を楽しむ、そんな日が早く来ることを望んでいた。
 昭和三年、十四歳のとき日本に来たが、間もなく日中間に戦争が始まり、国籍の問題もあって困ったであろう。日中戦争を愁う言葉が各所にある。
 碁も天才であるが、教養もまた天才である。中国の古典に造詣が深く、碁を知らない人が読んでも、感動するだろう。
 中国の棋客は強いとはいえないが、それは専門棋士がいないからで、才能のある少年はいる。日本のように碁だけで生活できるようになれば、日本に劣ることはないとか。
 中国の中流以上の家庭は料理人を置く、それは贅沢からではない。大勢の料理を作るのには料理人を置いた方が安上がりになるからとか。
 このごろの手合いは長すぎる。昔は必要なだけ考えて時間を無駄しないのが棋道の仁義だったが、時間いっぱい粘り、体力勝負に持ち込む人がいるとか。
 秀甫は時間の空費をしない人だった。相手の体力に思いやりを持つ人だったとか。
 堯帝が、碁を始めた伝説とか。
 昭和九年五月、中国を旅行したとき、どこでも、どのような姿勢でも、寝られたとか。満員の汽車の中、人いきれでむんむんするような車室なのに、ぐっすり眠った。「『そのやうなことは、近頃の私には、全然考へられない経験であつた。』」
 この記述はさりげなく読むには惜しい。日本に来て緊張の連続あったであろう。それが中国に行き、一気に緊張が解けたのか。
 信仰の話もある。
 『自分の欲望と結びついた信仰は迷信に過ぎない。』
 信仰と迷信の差を碁に例え、
 『たまには勝たしてあげてそれを励みにして、碁を捨てないやうにさせなければいけない。それはその人が本当に勝つたことではない。本当に勝つたことではないのを、その人が知つてゐるかゐないかが、やつぱり勝負になつてくる。それを自分が本当に勝つたのだと思ひ込むのは迷信である。』
 さらに幾つかの記事は、この復刊に当たって追加している。

 さて、莫愁湖である。
 昔、莫愁という若い女性が身を投じたので、この名が付いたという。
 梁の武帝は次のような詩を賦した。
   『河中之水向東流
    洛陽女児名莫愁
    莫愁十三能織綺
    十四採桑南陌頭』
 十五歳で嫁に行き、十六歳で子を生む、と続くが、
 なぜか、若い身空で身を投げてしまう。
 この故事から、莫愁湖となり、呉清源さんの莫愁となる。
 そんなわけで非常に印象深く記憶に残り、わざわざ行くほどではないにしても、近くに行ったら足をのばしてみたい。
 なお、梁の武帝とは、南北朝時代の梁(502〜557)の初代であろう。当時仏教が盛んで、南朝四百八十寺(なんちょうしひゃくはっしんじ)と杜牧の江南の春に歌われている。

謫仙(たくせん)

(2007.3.27)


もどる