勝負師の妻

藤沢モト   角川書店  03.2

 棋士藤沢秀行九段の妻、モトさんの一代記であるが、同時に、夫秀行さんを妻の目で見た記録でもある。
 この本、内容はすさまじく読むのが辛い。驚くような内容なのに、読んでいて楽しくない。
 米長さんは「天才を掌で転がす恐るべき猛妻」というが、この解釈は間違っていよう。「天才に振り回されても平気で耐えた妻」というべき。
 秀行さんは、現在も活躍している人である。歴史上の人物ではない。書くには当然制約がある。

 秀行さんといえば、「遊び」で有名であるが、これに対するわたしの見解は次のようである。

 秀行さんが「遊び」で人生を浪費せず、碁に精進していたら、古今を絶する大名人になっていたのではないか。それが「遊び」で人生を費やし、一流棋士で終わってしまった。
 碁では「九段」が最上段だが、実際はその上に「一流」棋士がいて、その上に「超一流」といわれる棋士かいる。

 あるプロ棋士は、「それは普通の人の話、秀行さんは桁が違う。「遊び」によってあれほどの棋士になった」という。
 世に「遊び」によって芸域を広げた、という話は多い。たとえば歌に歌われた春団治のように。
 だが、わたしはそれを疑問に思う。もちろん春団治についてもそうだ。この本を読んで、ますますその感を深くした。わたしが実際のことを知りもしないで、この本だけで、秀行さんを評価するわけにはいかない。この本に書いてあっても、わたしが書く以上、何らかの裏付けが欲しい。それができない以上、本の紹介だけにとどめることにせざるをえない。

 むかし、桂三木助という落語家がいた。安藤鶴夫によれば、若いころは「隼の七」といわれた博徒であった。
 あるとき、師匠の三代目小さんに壺の振り方を聞かれて、丁寧に教えた。小さんが高座に上がったとき、壺ふりをしたのだが、実に下手だった。その後、三木助はうまく演じて見せた。しかしお客さんの評価は逆だった。
 三木助が小さんにそのことをお伺いしたところ、「ああいう下品なことをうまくやってはいけない」といわれたという。これが藝ではないか。
 刀で人を切ることは経験できない。だが、高座ではそれらしく演じる。経験をえずして俳優は劇で映画で人を切る。遊郭がなくなってもくるわ話は演じられる。「遊び」が藝に通じるというのは、「遊び」の言い訳に過ぎない。もっとも、舞台芸人には、役に立つこともあるだろう。
 しかし、「遊び」で碁が上達するとは考えにくい。

 秀行さんは数千万円の収入があるのに、すべて遊びに使ってしまい、家庭では奥さんの内職による「扶養親族」であった話は興味深い。

 この本は、秀行さんを語る参考資料として貴重だが、この本はその一面である。モトさんは碁を知らないと思える。実際多くの内外のプロ棋士に慕われているのだ。魅力のある人であろう。
 そんなさまざまなことを考えさせる本である。

謫仙(たくせん)

(2008.12.4)


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