パウル君に毒づきながら

何?W杯ドイツの予選リーグからの全7試合と決勝戦、すべての勝利チームを当てた?それで黄金のトロフィーをもらったって?フン、タコの分際で上等じゃないか。でも事のついでだから、3位決定戦を含めて16試合全部を予想すればよかったじゃないか。何や、けち臭い!そもそもこんなことは当たらなくてもご愛嬌で済んでしまうから気楽なもんだ。それに256回に1回ぐらいは当たり前に起きることさ。ところで、「256回に1回」というのはどれほどすごいことなんだろう?―ー世界の賞賛を浴びるパウル君に毒づく私は、もしかするとパウル君の所有者である水族館の館長を羨んでいるのかもしれない。

他人(この場合はタコだが)の功績を素直にたたえる前に何やかやアラ捜しをしてしまう性格は子供のころから。この歳になってもお友達が少ないのは、ひょっとするとそのせいだったかと今さら悟っても、嗚呼遅過ぎた。しかもこの性格は碁を打つ時に顕著に顔を出す。たまたま勝ちを得れば、嫌がる相手を強引に感想戦に引きずり込んで相手の傷心に何度も塩をすり込む一方、逆に「こう打たれたらお手上げでした」などとほざいて悔しがらせるのだ。

負けた時はもっとひどい。「(味消しになるやらコウ材の無駄遣いになるやら、これこれしかじかもっともらしい理屈をつけて)この時点でここに打たれるとは思いもよらなかった。もっともそれが私のやる気を著しく削いだ(または発狂させた)のだから、言ってみればあなたの勝着になりました」などと、ゆがみひねくれた結論を相手に押し付ける。もちろん、検討する図は自分に好都合な流ればかり。いくら打ちのめされても、したたかに“精神的勝利”を目指す――これが不肖私めが体得した必勝の奥儀だ。

この流儀は、ウワテに対してもひるむことなく貫き通す。例えば私が2子置く相手にどうしても勝たせてもらえない場合、「この際、何のしがらみも捨て去り、改めて先でお願いしたい。ただし、持ち時間は45分ほどいただき、私が考えている途中でジャラジャラやらないでください」などと強がるのだ。ウワテは少々あきれた表情を浮かべはするが、こうしたシタテ側の陳情にはおおむね寛容。そしてまた、私は性懲りもなく痛めつけられることになるのだが、何、私独自の“精神的勝利法”さえ忘れなければ、また希望の明日を迎えることができる。

こんなことを書き散らかしているうちに、碁友の打ち碁を大盤解説されていた千寿先生が私の方を見て「棋譜を並べて自分と同格と感じた打ち手は、自分より2、3子強い」と言われたことを思い出してしまった。この言葉はもともと悪い私の耳をさらに痛める。特にシタテと打っている時に実感として受け止められるからだ。つまりウワテから見ればシタテの考え方は一目瞭然だし、次の着手もかなり当てることができる。逆にシタテ側からはウワテの心はまず推察できないのに、自分の尺度でウワテを理解したつもりになってしまうのだ。

立場を変えてみればすぐにわかるこんな当たり前のことを、私はしばしば忘れる。つい先日も、2子置いてもなかなか勝たせてもらえないウワテに「先でも勝てる」と口走ってしまった。もちろんこれは酔った弾みではあったが、遺憾ながら第三者の証人もいる。このウワテとは8月早々に会うことになっている。私の発言に腹を立てたウワテは容赦なく私をボコボコにするに違いない。梅雨はそのうち明けるだろうが、私にとって長く暑い夏は当分続くことだろう。

亜Q

(2010.7.16)


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