矜持〜たくせんさんの小部屋から

 今場所は負け越したが、大相撲の高見盛の人気がすごい。取り組み前の仕切りが時間いっぱいになるにつれて、肩を上げ下げ腕を握り締め、口をへの字に目をむいてたかと思うと一転瞑目。塩のまき方も気合がほとばしり出ているように見える。

 決して強くはないし冴えた技を持つわけでもない。私見では美男子でもない。ごく平凡な力士が、明らかに自分より資質に優れる相手と対等に闘うための飾り気のない素朴な仕草。相撲ファンはここに好感を抱いたらしい。もしも彼が計算づくで演技していたとすればきっと見抜かれるだろう。

 しかし、別の見方もある。日本の伝統的文化・技芸は美の理想を求める。まして国技である相撲では慣例的な決まりごとが多くある。マゲ(髷)をつかんだら反則。相手を怪我させないように、“かばい手”や“送り足”は認められる。勝っても負けても一礼して退場、行司軍配への抗議はご法度だ。

 だから高見盛のパフォーマンスを苦々しく思う気持ちもわかるような気がする。まして同じ力士、特に番付上位者から、自分たちが守り育てた相撲とは異なる邪道を行く者として反発が強いようだ。「あいつにだけは負けたくない」と大関が言えば、気の強い横綱は「ぶん投げてやる」と息巻く。

 「過程の美学」を尊重する精神は、知的格闘技たる囲碁の世界にも脈々と流れている。その典型的な例が日本独自の「終局の仕方」だろう。プロ同士ならば整地さえせずに互いに目算で「○目ですね」と肯き交わし、それをもって公式記録にすることも少なくないという。

 そこで想起されるのが昨春の棋聖タイトル戦の大舞台。生々しさが薄れてきた現時点で、僭越ながら素人考えを述べさせていただく。

 基本的なスタンスは“ダメ詰め後に生じた石の打ち上げはあり得ない”。アマ同士でなくても「お継ぎください」の世界。本局立会人による“石田裁定”とは逆に、明らかに勝ち碁だった「挑戦者勝利」が自然だと思う。日本棋院規則の立案者でもある理論派・酒井猛九段も同様な意見だったと記憶する。

 それでは当時のタイトル者が、なりふり構わず勝とうという邪道だったのだろうか。私はその正反対だと考える。当対局にはいくつかの伏線があった。最も重要なのは挑戦者による“石はがし疑惑”。盤側からもそれとわかる行為だったようだ。タイトル者はこれを不満に思ったが、そのまま見逃した。

 そして迎えたあの終局の場面。タイトル者は迷ったに違いない。日本碁界の伝統や慣例はもちろん熟知のうえ。しかも味の悪いことに、自分の負け碁。それでもこのまま終わらせれば将来に禍根を残すと決断した。言うまでもなく、自分が勝って得をしようとしたのではない。私は100%そう信じる。

 もう一つ、憶測を許していただけば、“棋士も人の子”である部分が皆無だったろうか。普段は厳に慎んでいる人間的な感情が第一番になればなるほどひょっこり顔を出す。「週刊碁」の愛読漫画『すごもり君』にもあった。打って波長が通じる相手と、ついつい互いにピリピリする相手がある。終局事件のひそかな核心はここにあったのかもしれない。

 ヤンキースの松井選手はワールドシリーズで同点のホームを踏んだ時飛び上がって派手なガッツポーズをした。日頃の彼らしくはなかったが、大多数のファンは感動したのではないか。無敵をうたわれた大横綱の双葉山は“木鶏”を目指したという。自ら高みに上ろうとする姿は尊いが、それを他人に強いるのは無理筋。高見盛のように無意識に人間性を発露することも「あり」ではないか。

 なお、事件の後の両対局者の言動は総じて気持ちが良かった。特に挑戦者は粛々と裁定を受け入れ、自己の反省材料にしようとしていたようだ。これを“プロの矜持”と言うべきだろうか。囲碁愛好者のはしくれとして共感している。

亜Q

(2003.11.24)


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