大根のなまめかしさ

薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)という変てこな名前は学生時代から知っていた。蒲原有明(かんばら・ありあけ)とともに「泣菫・有明時代」を築き、藤村・晩翠以後の明治後期の詩壇を背負った大詩人らしいが、もちろん、著作を読んだことはない。ところが8月11日付の日経新聞夕刊「プロムナード」欄で文芸評論家の秋山駿氏が紹介してくれた「艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)」の一節にたまげた。

[……それよりも心をひかれるのは、土を離れた大根が、新鮮な白い素肌のままで、畑の畦(あぜ)に投げ出された刹那(せつな)である。身につけたものを悉(ことごと)く脱ぎすてて、狡(ずる)そうな画家の眼の前に立ったモデル女の上気した肌の羞恥を、そのまま大根のむっちりした肉つきに感じるのはこの時で、あの多肉根が持つなだらかな線といたいたしいまでの肌の白さと、抽(ひ)き立てのみずみずしさとは、観る人にこうした気持ちを抱かせずにはおかない。](原文のまま)

大根が、こんなになまめかしいものとは、知らなかった。そんな感覚が生じるのも、母親が生まれたばかりの赤ん坊を可愛がるように、言葉を可愛がっているからだ。まるで言葉で大根を愛撫するような、そんな妙味が生じる——と秋山氏は解説している。

妄想遣いの私がこんな文章に触れると、たちまち囲碁の厳粛な“握り”の場面にワープする。

好敵手同士が碁盤を挟んで静かにあいさつする。おもむろに碁笥を引き寄せ蓋を取り、一方が白石を握って盤上に置き、そのまま手で石を覆い隠す。他方が黒石をつまみ丁半の意思を表すと、石を隠した手をそっと離す。その刹那こそ、大根が畑の畦に投げ出された瞬間である。白石は人目に晒される羞恥を隠し切れぬまま、盤上に露(あら)わになる。

問題は白石を握る「手」だ。むくつけき野郎の毛深い手ではせっかくの名文の興趣が殺がれる。せいぜい小柄・細身の本因坊秀哉あたりがぎりぎりの許容範囲。いっそたおやかな女性の手が望ましい。

幸い、千寿会には千寿先生をはじめ、女性の打ち手は少なくない。ぜひとも彼女たちに握っていただき、その手が白石からそっと離れる時、そこが見もの。それを密かに楽しんで誰に咎められるものか。

ところで、千寿会最長老の「ちかちゃん(=濱野彰親画伯)」は、かつての文壇名人2期の強豪と言うより、美人画で鳴らした挿画の名匠として名高い(ご参考までにこちらこちらをご覧ください)。身につけたものを悉く脱ぎすてた美しいモデル女性を眼の前にして、狡そうに舌なめずりされていたのだろうか。

亜Q

(2008.8.14)


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