サリエリのかなしさ

 わが人生を振り返ってみて、さして満足もしないが、それほど後悔するわけでもない。(続いてご家族とのことなどが書かれているが、失礼ながら割愛させていただく)さしてこれと言った仕事もできなかったが、それ以上をべつに望むことは全くない——。

 来年傘寿を迎える作家の北杜夫さんが日経新聞に連載した「私の履歴書」の最終章でこんな心境を述べておられた。いつしか私も、ささやかな人生をこんな風に総括をしてみたいものだなどと憧れる年頃になったようだ。

 これに対してあまりにも切ないのが、英国の劇作家ピーター・シェーファー(1926〜)が自作の「アマデウス」(1979年初演)の劇中、主人公のサリエリに観客席に向かって語りかけさせた息絶える直前の慟哭の言葉。

 ご存知の通り、サリエリは天才モーツァルトと後半生を共にした宮廷作曲家。「すべてをあなたに捧げた私でなく、なぜあの下品な男をあなたは選んだのか」と神を呪い、「サリエリ。凡庸なる者たちの守護神!」と自嘲的なせりふを発して自殺を図った。そして“いまわの際(きわ)”に叫んだのがこれ。

 「すべての凡庸なる者たちよ——今いる者、そして生まれくる者も——お前たちすべてを赦そう。アーメン!」

 1月30日付の朝日新聞の小池民男氏の名物コラム「時の墓碑銘(エピタフ)」からしばらく引用させていただこう。小池氏は「モーツァルトについていま、何かを語ることができるだろうか。すでに語り尽くされたのではないか。あるいは、あの音楽の前で語るべき言葉はない、と断念するしかないのかもしれない」と前置きし、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と喝破した小林秀雄の論評を例示して「はたして言葉は追いつくことができるのか」と戸惑いながら筆を進める。

 サリエリの悲劇は、理解する人だったことだ。モーツァルトが「神の子」であり、彼の音楽が至高であることは痛いほどわかっていた。自分が二流であることも。決してモーツァルトにはなり得ない人々の嫉妬と悲哀の代弁者を演じた。そしてピーター・シェーファーはサリエリを狂言回しとして、言わば“ネガフィルム”からモーツァルトの輝きを浮き彫りにした、として次のように文章を締めくくる。

 モーツァルト生誕250年に美しいピアノ協奏曲を聴きながら思う。「いま、ここに」時空を超えて彼は生きつづけている。凡庸なる私たちは、いつまでも彼をたたえるべき言葉が見つからないまま聴きつづける——。

 こんな名文を読まされると、私は反射的に碁に結びつけてしまう。もう去年のことになるが、「鳩にも孔雀にも、ましてや女にはなれない」と絶唱された“カモメのジョーさん”はお元気でいらっしゃるのだろうか。

亜Q

(2006.2.1)


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