ムキになる魂

NHK杯
NHK杯羽根−坂井戦

 昨年末放映された第52期NHK杯の第3回戦。24世名誉本因坊の歯切れの良い解説を堪能した。ベスト8枠の中で最大の目玉、ハネナオキ棋聖(先)vsサカイヒデユキ六段(現七段)戦。

 手始めはまだ序盤、白がじっと下がった52を、「なかなかいい度胸をしていますね」――。感心しているようで、若造を脅しているようにも聞こえるちょっと微妙な“恫喝イッシー節”。大場はたくさんあるのに、相手が先手で決める権利があるところを逆ヨセみたいに先取りする。ザル碁の私は日頃から、善悪は別にしてサカイはこういう打ち方が得意なように感じている。渋いのか辛いのか、それとも意識的あるいは無意識に相手をおちょくる天性の勝負師なのか。

 次は中央で黒がポン抜いた99。「普通は黒が勝つとしたもの」とズバリ“明快イッシー節”。ところがこれはサカイの予定の行動だったのか。涼しい顔して黒の地模様に深々と潜り込む。この白112を「すごい勝負手」と素人には説明しながら、イッシー本人は少しも驚いていない。「こういう手どころでは我こそ碁界第一人者」とも言いたげな“織り込み済みイッシー節”。112への応接のさなか、強情に利かそうとしてすっぽかされた黒129が敗着になったらしい。意味を問われて一言。「悔しかったから、ぶつかったんでしょう」は“本音イッシー節”か。

 対局者二人はザル碁素人にはアイドル、つまり公人。見当外れの憶測を、笑って許されよ。ナオキは、王座位を獲った名棋士ハネパパの跡をたどって、当然のようにプロ棋士になった。順調に頭角を顕し、天元に続いて棋士序列第1位の棋聖、ついでに阿含杯をも獲得している。一方のサカイは年齢こそ3歳上だがプロではまだ3年目、実績はナオキと比べ無きに等しい。しかも履歴がナオキとまるで違う。大学に入り医学を志し、医師になってから初心に帰った。

 年齢は近いが自分とは異質な存在。それがメキメキ台頭すれば、誰でも本能的に気になる。内藤観戦記者によれば、サカイはアマ時代、ナオキが所属する中部総本部で武者修行をした。7人ほどの棋士が入れ替わり対戦したが枕を並べて討ち死に。言わば“道場破り”を許した。ナオキ本人もNHK杯対局と同じ頃、このサカイからおそらく最も苦い汁を飲まされている。結果に天地ほどの違いが生じるリーグ入り枠抜け戦(第30期名人戦)で負かされたのだから。

 注目率が高いNHK杯で負けたくない、率直に言えば当たりたくもなかったのではないか。案の定、結果は最悪。「いい度胸」を見せられ、不利に臆するどころか平然と勝負手を打たれた。「俺は棋聖だ。少しは言うことを聞け」と打てばすっぽかされる。こんなの悔し過ぎないか―。

 この話を欧州帰りのチーママに伝えると、「ハネ君には最も似つかわしくないわ」が第一声。確かにプロ棋士名鑑には、「形勢判断とヨセに明るく、粘り強く堅実」とある。そもそもチーママはペア碁戦でハネ君のパートナーを務めた(貴重な写真)経験もあるから彼の気質はよーくわかっている。それだけ不思議なのだろう。

 人生の達人と言われる(誰に言われたか忘れたが)私にはこんなこと珍しくも何ともない。そういえばこの正月に見た夢が切なかった。昔の小学校時代、色が白く背も髪も長い女の子。勉強はできるし、かけっこも早い。ピアノはコンクールで入賞、絵や習字は金賞、作文も得意。「オナゴに負けるな」が家訓だった私は日頃の実力を発揮できず、彼女の前で失敗を重ねた。席替えで彼女の隣になる機会も「目が悪いからもっと前に行きたい」と自ら辞退してしまった。このとき私は、「顔で笑って心で泣く」ことの意味を、子供ながらしっかりと理解したのだ。

 こうして「自然体の重要性」を学んだ私は、プロに教わる時も無論勝とうなどと思わない。急がず、貪らず、妬まず、他人を真似ず(定石を知らないせいもあるが)、常に工夫を心がける。終盤に置石の効果が消えてリードがなくなったら、その時点で投了してポイント指導を仰ぐ。

 ところが嗚呼何たることにやあらん。肝心のチーママに教わる時に決まって“私の碁”が壊れるのだ。正月中つらつら考えて愕然とした。いつの間にかチーママがサカイ、私がナオキだったのだ。ペンは時として滑る。この際、「ザル碁アマがちゃっかり棋聖に便乗した」と謗ることなかれ。温厚、鷹揚、上品、バランス感覚、この私を表現すべき多数の形容詞群はいったいどこへ去ってしまうのだらう。

 そうか、相手は名にし負う妖女チーママではないか。武闘派の実力者G九段をも幻惑してカオスへと誘い込む(G九段の家訓を知りたい)黒魔術の数々。色好みのかささぎさんには真綿でくるみこむ甘い罠。そして直情径行、民主党のオカダさんみたいな私には、いつの間にか「悔し過ぎる状況」に追い込み、ムキにさせる不思議なオーラの仕業。とても対抗できるはずはなかった。

亜Q

(2005.1.19)


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