おもしろうて、やがてかなしき独り碁

 碁にのめりこみ始めた頃、ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら、閑人(ひまじん)のすさびに「独り碁」にいそしんだことがある。1手打つごとに黒白立場を変えて、次々に変わっていく局面を相手に最も大きい、あるいは急がれる次の着手はいずこにありや。言わば、たった一人で紡ぎ上げる「千編盤歌」(千寿師匠が『週刊碁』に連載されたコラム名でもある)。何も19路盤である必要はない。9路でも13路でもいい。レベルは低くても自分なりに最善を尽くして終局させることに意味がある。

 もちろん、勝ち負けの結果を競う面白みはないし、棋力向上につながるかどうかもかなり疑問。それでも「独り碁」にはかけがえのない効用がある。その第一は、黒白両方の立場を兼ねるから、ザル碁にありがちな“独り善がり”は通用せず、常に中立・公正な態度で「盤上次の1手」を追い求める習慣がつくこと。もっともこんなカッコいい御託を並べても、昭和の大棋士・呉清源老師並みの棋力・知識と求道者のみが持つ崇高な志がなければ、アマにはなかなかできることではないかもしれないが。

 もう一つ、コミの大きさを自ら検証する“実験物理学者”(そんな職業があったかしら)の気分を味わえる心理的な効用もあるかもしれない。対局するのは当然ながら全く同じ棋力同士。両者が大崩れせず、呼吸を合わせて終局すれば地合いはどの程度の差がつくのか。何局も繰り返せば、自ずと数字が出てくるから、これこそが自分に最も適正なコミと言えるのではないか。これと似た意味で、真似碁もコミ判定の有効なツールになり得るだろうか。ザル碁アマにはさっぱりわからん。

 もっと実利的な効用は、自分の棋風を把握できることだろう。それにはコツがある。黒白なるべく対照的な棋風を想定して、それを最後まで貫徹するのだ。例えば、黒は厚み、白は実利を重視する棋風と決めて打ち続けると、どこかの局面で自分が口笛を吹きたくなったり、逆にどう打っても負けそうに思ったりすることがある。打ちたい手が次々に浮かんだり、確かな手応えを感じられる方が自分の棋風に近いはずだ。

 ただ、漠然と棋風をイメージしてもなかなか思うようには行かない。そんな時は具体的な棋士に“成りすます”のが効果的。とは言え、私レベルで成りすましたつもりになれる棋士はごくごく限られる。代表格は何と言っても元名人・本因坊、武宮大風呂敷先生。韓国・中国の碁が最強とされる今でも、「世界中で最も人気のある棋士(棋風)」(チーママ)であり続ける理由は、大風呂敷先生の碁の考え方や志が、棋力や棋風に関わらず誰にもわかりやすいことかもしれない。

 大風呂敷先生以外で成りすましやすいのは、めったに石を捨てず地に辛く、足早にドライに決めていきながら石の強弱に鋭く目配りし、相手に弱点が生じれば猛然と襲いかかる小林光一・ウックン(少し違うかもしれないが、私レベルでは峻別できない)のマルチタイトル親子、楽な生き方を断固排し、相手の地模様にドカンと打ち込んで我が地としたり、相手の厚みは壁攻めの対象と心得るチクン大三冠棋士、序盤から中盤にかけての構想は世界一、御用済みの石は明るく処分して石の効率で勝負する依田元名人、遅れを気にせず常に本手、厚い手を繰り出し、コウに強くいつまでも攻めが途切れない高尾名人・本因坊、夢を追い求める“フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン”の序盤構想がチャーミングなオーメン元本因坊らだ。

 アマから見てプロ棋士の棋風なぞというものは敷居が高過ぎて見当もつかない。上記の棋士はごく稀な例外で、私のイメージもほんの上面をなぞっただけだろう。たとえばチーママ、覚さんをはじめとする千寿会関係者にはずいぶん教えていただいたのだが、棋風となると「?」。教えていただいたことはないが、著名棋士の中では、例えばチクリンは含蓄があり過ぎてとても歯が立たないし、加藤、石田両棋士は序盤の小目、目ハズシまでは真似られるが後が続かない。古今の大棋士では、平明流の高川秀格第23世名誉本因坊、真似碁を究明された藤沢朋斎初代九段ぐらいがイメージの限界で、呉、坂田、宇太郎、秀行といった昭和の大棋士先生方はお手上げだ。

 思うに、真似しやすいかどうかは個性の質と量ではなく、ザル碁の私にも感じ取れるごく表面的なものなのだろう。そう言えば野球でも相撲でも、江夏や江川の真似はできないが、巨人と阪神との間で電撃交換トレードされた小林投手や、貴乃花は無理でも舞の海の真似を私はうまくやってのけたものだ(オトナになった今、イチローや野茂、朝青龍や高見桜などの真似をできるけれど、いい年齢して気が狂ったと言われても困るので慎み深く控えています)。

 だから私は盤上で怪人二十面相に変身する。或る時は亜タケミヤ、また或る時は亜コーイチ、さらに亜ヨダ、亜タカオ、亜オーメンらに次々に成りすまし、秘術の限りを尽くして「盤上次の1手」を追求し、適正なコミを探り、秘められた我が棋風を解き明かしていく——はずだったのだが、実は1局たりとも終局までたどり着かない。ま、要するに“飽きっぽい”“目移りしやすい”性格のなせる業。「おもしろうて/やがてかなしき/独り碁かな」なぞと独り言をつぶやき、格調に満ち溢れたチャレンジをすべてチャラにしたのだ。これ以上詮索するのは気が滅入るから、もっと前向きの話題。

 「独り碁」を敷衍すれば、「奇数連碁」につながる。例えば3人(5人ぐらいまでが限度かな?)で打ち進めると、手番が必ず黒白交互に替わる。棋力はなるべく近い方が「手談」が成立しやすいが、アマの場合はプロ以上に棋風の違いが大きく棋力の安定性に乏しいから、いつも予想もつかない進行になるだろう。私は碁には負けるが、相手の着手を予測したり、逆に自分の着手を相手に読ませないことにかけてはいささか自信がある。独り碁と違って飽きることもないし、結構面白いのではないか。贅沢を言えば、プロまたはアマ強豪にそばで見てもらいながら、適時寸評をしていただくともっと興趣が湧くと思われる。同好の士があれば是非ともチャレンジしたいと思うが、さて、長続きするかどうか。

亜Q

(2007.7.12)


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