石の鼓動

江崎誠致   双葉社   昭和48年

 不世出の天才棋士、坂田栄男の一代記である。いわゆるモデル小説である。
 著者は坂田栄男を史上最強の棋士と認識しており、まだ現役で活動しているうちに、この小説を書いている。
 坂田の囲碁にかける情熱と、囲碁以外のことに対する世間知らずともいえそうなことなどを、冷徹な筆で描写する。
 この中で紹介された図(右)を示す。
 坂田対高川の実戦に現れた図である。スミの白はどうなりますか。
「どうなりますか」とは、二人は白1・黒2を交換したあと、ここを放置して別なところを打ち始めたからだ。
1、白先でも白死。 2、白先劫。 3、白先生き。
4、黒先白死。 5、黒先劫。 6、黒先でも白生き。
 実戦では白が手を戻した。控え室にいたプロ棋士がだれも気が付かない手だったという。おそらく相手の高川も気づいていなかったらしい。

 さて小説は、
 同時代の高川との十年間預けられた決戦。七冠王を達成し、敵のいなくなってしまった最強の時。続いて後輩林海峯に覇者の座を奪われるまでの死闘。
 そのほか、「坂田の外のぞき」をはじめとする数々の妙手鬼手。
 さらに青年時代の戦争。
 非力の坂田を徴兵し、重機関銃部隊に配置する戦局。銃を持ち上げる力もないのに、どうやって操作せよというのか。
 戦死するよりも、古参兵に虐められて死ぬ方が多くなったとき、もはや軍の末期状態である。そんなときでも、あまりの非力にビンタを受けたこともない。これで生きて終戦を迎えたのは幸運としかいいようがない。
 プロ棋士以外の、コンケイさんこと近藤啓太郎や川端康成あるいは著者などの文壇とのつきあいもある。
 著者は坂田を、昭和囲碁山脈の一角に一天高く突きあげた鋭峰であり、活動する火山である、と評している。
 話は「名人」のように、連作短編の形をしている。
 名人になったとき。本因坊に挑戦するまで。子どもの時。ここからは時系列に進行する。クライマックスを最初に書く小説の技法である。
 院生時代。新布石の時代から徴兵をえて戦後になる。31歳にして、初めて本因坊に挑戦する。呉清源との六番碁と十番碁。高川との本因坊戦で本因坊奪取。藤沢秀行から名人を奪い、時代の覇者となる。だが、次の覇者たる林海峯が足元に迫っていた。そして23歳の林海峯に名人を奪われる。それから数年にわたり二人の死闘が続き、時代の覇者の座を奪われるまで。
 カミソリ坂田・シノギの坂田・自在の坂田などと言われた。こういわれるのは超一流棋士の冠ではないか。
 初めの問題図の進行を示す。白先で劫だった。それでも、勝負は高川本因坊の勝ちであった。

 この図は、一手ヨセ劫であり、控え室の予想図である。

 最盛期には年間三十勝二敗。本因坊本戦十七連勝。棋戦の在り方が違うため、直接の比較はできないが、この成績は、江戸時代の両棋聖や昭和の棋聖とも言うべき呉清源と比較しても遜色がない。そしてここに紹介したような名手鬼手が色を添えている。

 この本は昭和48年(1973)4月25日発行である。買った日付は二日前の23日になっている。いまネットで検索してみると1979年の本が多い。そちらは改訂版か再版か。

謫仙(たくせん)

(2008.5.8)


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