テレビの囲碁報道

NHKが「公共放送としての自主自律の堅持」を使命に掲げた『新生プラン』を発表した。「視聴者第一主義」「組織・業務の大幅な改革・スリム化」「受信料の公平負担」を三つの柱に、“NHKだからできる放送” を追求するという。

はじめの二つはとっくに確立されているべき建前を今さら持ち出した感がなくもないが、「原点に帰って見直す」意思表明としてとりあえず前向きに受け止めよう。三つ目は「支払い督促」という法的措置の導入を意味するらしいが、大組織にありがちな“ご都合主義”が見え隠れする。どうせならもっと踏み込んで、受信料の引き下げや優良視聴者への1年間無料化といった“出血の覚悟”を見せて欲しかった。

それにもまして重要なのは、“王国”とか“帝国”と言われるような大組織固有の傲慢さを払拭することではないか。報道機関、とりわけNHKはどの場所、どんな場面に土足でズカズカ入り込んでも、「NHKです」との一言で受け入れてもらえる。少なくとも、彼らはそう思っている。「公器」をカサに“何をしても許される”状況に馴れて、映される側(取材される側)の心を無意識に踏みにじるとか、視聴者のニーズに無頓着な押し付けが横行していないだろうか。

こうした「負の側面」は、視聴者が限られる囲碁番組などで顕著に顔を出す。特に、碁盤と対局室全体、大盤解説の三つの場面を切り替えるNHK杯ではカメラ選択のタイミングが悪い。放映責任者は碁を知っているのだろうか。場面ごとの時間配分ばかり気にして、碁の醍醐味を伝えるための臨機応変措置が講じられていない気がする。解説者も視聴者も慣れっこになって辛抱しているが、司会進行役(現在は青葉かおり四段)にカメラ切り替え操作を委ねるなどの改善策を試行してみたらと思うが、現場では誰もそんな提案はしないのだろうか。

報道という錦の御旗を振りかざした思い上がりはないだろうか。その典型的な被害者が、7、8年前に未踏の本因坊位10連覇を達成したチクン大棋士。歴代本因坊の墓所「本妙寺」(東京・巣鴨)で多数の棋士・関係者とともに式典を済ませた後、あらかじめ取材を約束していた時刻に大幅に遅れてNHKクルーが駆けつけた。場所がわかりにくかっただの、道が混んでいただの、いろいろな言い訳を重ねて「式典の一からのやり直し」を申し入れたらしい。

これは温厚(ズボラ)な私でも切れる。まして自分でも驚くほどの大仕事をやり遂げた後、重い責任感を胸に神妙に式典を滞りなく済ませたばかりのチクン大棋士は怒り心頭に発するだろう。頭ごなしに「報道の大義」を尊重せよと言われても、「取材をお願いしたわけではないし、テレビに出たいわけでもない」とへそを曲げたのはごくごく当然。現場に同席していた先輩棋士たちがチクン大棋士を必死にとりなして、ようやく多少簡素な形で式典をやり直したという。ともかく無事に終了してNHKクルーはほっとしただろうが、自らを棚に上げて、出演者の遅刻には厳しいようだ。

思い出すのは、依田碁聖(当時名人、元NHK杯者)のNHK杯出場辞退。本番ではなく事前の打ち合わせに碁聖が遅れたのを担当プロデューサーが咎めた。遅刻した自分が悪い、だからもちろん謝る。しかし「NHKに出たいなら、自分の言うとおりにした方がいい」と匂わされたら、地位に胡坐をかいた高飛車感覚と映る。大組織に追従しない人間にはなかなか容認しにくいだろう(本件は1年後に和解したのはご存知の通り)。

出演者による“舌禍事件”(?)への対応にも、「事なかれ主義」や「教条主義」がうかがえるような気がする。「碁が強い人は信号を守らない」とわかりやすく的確に喩えたタケミヤ発言を問題視したり、将棋のM下棋士が何気なく使った将棋の常用表現を差別発言と捉えるなど、報道の常識に無知な庶民を教え諭し、自分たちは報道機関として当然のことをやっているから問題なしとする「権威盲従」「判断停止」が立ち込めている。

もちろん、こうした姿勢は朝日や日経などの新聞や電通・博報堂などのマスコミ関係機関に共通しているのかもしれない。もっと言えば、調子に乗りやすい日本人、早い話、私のような「身の程知らず」がどこの世界にもいるのだろう。読み苦しさを我慢してここまで目を通していただいた方には伏してお詫びとお礼を申し上げます。

蛇足ながら、囲碁番組の解説者の方へ一言啓上。囲碁界には、我らの覚さん、24世本因坊イッシー、情報通の大矢九段をはじめ、他の専門分野と比べても傑出した解説者が数多おられるが、少数派として本音・辛口発言を売り物にした“悪役”志望者を募りたい。

今でも語り草になっているのはチクンさんの“プッツン事件”。まだ大棋士になる前の生意気盛り、自分と同じ若手同士の対局を見て「こんな手は碁にない」といった批評を繰り返し、赤裸々な感情を生で見せつけたことがあった。これを咎める手筋は私だっていくつもあるし、そもそもチクン大棋士自身百も承知だろう。しかし、碁にのめり込むあまりのこうした行き過ぎ、感情の発露を一概に否定したくない。何よりも、碁を大切に想う心が伝わってくるからだ。

最近では、1、2年前の依田解説(確か棋聖戦だった)が良かった。対局者の打ち方に軽々に妥協せず、自ら対局者の立場になって「次の一手」に悩み、その挙句、いかにも依田さんならではの思い切った打ち回しを披露してくれた。解説の最中に笑顔は一切なし、カメラや聞き役との無難な進行などにはまるで頓着せずに大盤に没入する姿に惚れ惚れした。

亜Q

(2005.9.25)


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