トラとライオン

 今でこそノーテンキを装ってはいるが、私は悩み深き少年時代を送った。中でも最大の悩みの種は「トラとライオンはどちらが強いか」。地球上に棲む動物同士が一対一で戦った場合、何が勝ち残るのか。密林の王者と百獣の王を横綱・大関として、関脇・小結は黒ヒョウかヒグマ(または白熊)かゴリラあたりか。闘志満々のバッファローや黒サイはどうだろう。アフリカゾウやアマゾンの大蛇アナコンダはもっと強いかもしれない。ついでに、ピューマとジャガーはどちらが強いだろう。

 授業中でもこんなことばかり考えていたから、小学校時時代は「考え深い少年」と誰からも見られていた(に違いない)。ただし、いくら番付づくりが好きでも、「お気に入りの色」とか「好きなおかず」とか「将来嫁さんにしたい女優」などいっためめしいテーマを選ばなかったのは、当時から私がれっきとした硬派だったことを明白に物語る。

 長ずるに及んで考える対象は仕事や人間関係に向かい、強い動物の番付づくりはいつしか忘れていた。しかしほんの1ヶ月ほど前、ケーブルテレビの「動物チャンネル」で思いがけず「トラとライオンはどちらが強いか」を放送していた。眠い目をこすり、私は興奮して最後まで見た。アメリカの大学の研究者たちがトラとライオンのパワー、機動力、習性、戦い方などを数値化して骨格や筋肉を精密に再現したロボットに移植し、実際に戦わせて結論を出したのだ!

 トラは密林を本拠に単独行動する。木登りや水泳も得意だ。ライオンは草原に住み、群れを成して行動する。狩りはもっぱらメスが主役だが、トラとの闘いのシミュレーションではオスを登場させている。トラはライオンよりひと回り大きく、あごの力や爪の破壊力もライオンより10%ほど大きい。獲物を仕留める時には脊椎を一発で噛み砕いて即死させる。ライオンは群れで行動する分、狩りの経験がトラより豊富だ。相手の喉元に喰らいついて時間をかけて窒息死させる。トラもライオンも走るスピードはかなり速いが、持久力がないのが共通した弱点で、しばしば獲物を取り逃がしてしまう。

 トラとライオンを棋士に喩えればどうだろう。本サイトにお見えいただいている賢明なる諸兄はすぐ読み切られるに違いない。その通り、来春早々に始まる棋聖タイトルを賭けて闘う敬吾棋聖・王座がトラ、挑戦者の覚さんがライオンだ。棋聖の破壊力はおそらく全棋士中トップ。年末には天元戦、王座戦のダブルタイトルマッチを戦ったばかりだし、十段戦も挑戦権にリーチをかけている。言うまでもなく、日本最強棋士の一人だ。

 一方の覚さんは棋聖・碁聖タイトル経験に加えて、名人・本因坊リーグにも常連のベテラン実力者。十段、碁聖戦はすでにギブアップして、三大タイトル戦に照準を絞っている。何と言っても、碁界随一の歴戦の雄であることは間違いない。このところウックンと並んでいつも最多対局数を争う敬吾棋聖に比べても、経験では1歩も2歩も上回る。男らしく筋を通すタイプだから、王座戦の貸しをきちんと返してもらうだろうか。

 両者の最近の調子はどうか。この年末、敬吾さんは王座、天元のダブルタイトルマッチに挑戦し、ウックンから王座を奪取し、リンさんには返り討ちに遭った。敗者復活戦形式の十段戦は早々に勝者枠を勝ち上がり、敗者組からの勝ち抜け者を待っている。碁聖戦は松本新人王に敗れてベスト16止まり。NHK杯はチクン大棋士に、名人リーグ緒戦は坂井七段にそれぞれ敗れ、本年通算は44勝24敗でウックンに次いで勝ち星ランク第2位。ただ気になるのは、王座タイトルを奪取した後、天元戦最終局、そして名人戦リーグ緒戦と連敗して06年を終えていることだ。

 これに対して覚さんは秋頃から不調が続いたようだ。11月末に羽根前棋聖を破って棋聖挑戦を決めたのに、当のライバル敬吾棋聖との王座挑戦者決定戦で絶対優勢の最後につまずいて敬吾さんに挑戦権を譲った(敬吾さんはその勢いに乗ってウックンを破って王座タイトルを獲得)。さらに他の棋戦では本因坊リーグでまさかの3連敗、さらにNEC杯、十段戦、NHK杯を相次いで落とした。年末押し詰まってようやく名人リーグ緒戦と天元戦ベスト16を勝ち上がり、年内ぎりぎりに900勝を達成(しかも達成時勝率はチクン大棋士をきわどくかわして歴代トップ)したのはさすがだが、本年通算28勝20敗(勝率5割8分)は本人自身、いま一つ納得できないだろう。

 両者はそれぞれ2連敗と2連勝で年末を打ち上げた。もっとも、大勝負直前の成績は当事者同士の対戦成績同様、まったく当てにならない。私の下司の勘ぐりとは思うが、対局相手を互いのライバルに重ねていろいろな手を試行錯誤している可能性もある(特に歴戦の雄、覚さんの場合)。果たして勝つのはトラからライオンか。もちろん、ザル碁の私が論評しても始まらない。敬吾棋聖の義兄であり、覚さんを師と仰ぐ千寿会講師の高梨聖健八段あたりに予想を聞きたいところだが、きっと彼は静岡の実家に帰ってしまっているだろう。

 それではお待たせいたしました。ここで「動物チャンネル」の結果をご報告しよう。

 両者しばしにらみ合い、うなり声を上げて相手を威嚇し合うこと数秒。狩りに長けたライオンは戦闘意欲満々、いきなりトラの喉笛を狙って強襲をかける。しかしトラの強大な爪の一撃を喰らって牙は空を噛み、逆にトラの強力な牙がライオンの脊髄を狙う。ライオンは絶体絶命のピンチを鬣(たてがみ)に救われて致命傷を免れ、まさに虎口を辛くも脱して森の木陰に退避する。トラは自ら仕掛けず悠然とライオンを待つが、ライオンは木陰で傷の回復を待ってなかなか攻めに出ない。

 いくばくかの時間が通り過ぎ、トラの一瞬の油断を衝いてライオンは果敢に殺到し、トラの喉元に喰らいつく。しかしトラはものともせず、破壊力のある牙と爪でライオンに打撃を加え、ライオンを自らの下に組みしだく。ライオンはトラの攻撃を蛇のように巧みに身をくねらせて何とか致命傷を逃れながら、何があってもトラの喉笛を放さない。そしてどれほどの時間が経過したか、ついにトラは崩れ落ちる。戦い上手なライオンが満身創痍になりながらトラを仕留めたのだ。

 来年(と言ってもすぐそこだが)のことを言えば鬼が笑う。それでも今なら好きなことが言える。「動物チャンネル」のシミュレーションは棋聖戦にも当てはまるのだろうか。

亜Q

(2006.12.28)


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