囲碁徒然草

徒然草絵抄の兼好法師
徒然草絵抄の兼好法師
 ままにならない浮世に耐えかねて、読書家でもないのにふと すがりついたのが『下手な人生論より徒然草』。 マドンナ先生とやらの塾講義そのままの奔放な語り口がなにげ に珍しい。

 頃は14世紀、建武の中興が破れて鎌倉から室町へと時代がめ ぐる中、孤高の出家僧が日暮らし“よしなしごと”を書き留め たご存知の随筆集。「もののあはれ」や「無常観」が根底だか ら内容は「厭世的」で「懐疑的」。筆者のマドンナ先生自身、 「世離れした宗教者の観念論」として敬遠していたらしい。

 ところが作者の吉田兼好はこの時代には珍しい「合理的で論 理的な思考の持ち主」。世間の様相・日々の生活・人間関係な どの日常的な話題から、真理・教養・哲学・宗教などの学術的 な話題に至るまで、その視線は広く深く、指摘や意見は簡潔明 瞭で鋭い。教科書で断片だけ読んだ学生時代には単なる「決め つけ」と捉えた自分が、今ではその手加減のなさを「痛快」と 感じるようになったと、筆者は言う。

 しかも兼好は、ものごとを多面的に捉える「複眼的思考」を 備えていた。そのため、章段によっては一見「矛盾」とも思え る論旨の食い違いが見られ、若い頃の筆者は「ああ言えばこう 言う偏屈爺」と思い込んでいたようだが、今では「固定観念に とらわれない柔軟さに感服して」、以下の文章につなぐ。

 川面に浮かぶ飛び石をひょいひょいと渡り歩くように、兼好 のフットワークは軽い。人生を深く見据えて要所要所に確固た る足場を見つけながらも、なおかつ全身の重みを一点には預け ない。右に偏れば左に体を移し、前のめりに気が逸ると後ろへ 身を引いてみる。絶えず逆ベクトルを意識する兼好のバランス 感覚こそが、『徒然草』の醍醐味だと思うようになったーー。

 ここまで読んで、私(亜Q)の鋭いアンテナは一つの天啓を 探り当てた。「何とこれこそ、一手一手で変わりゆく碁そのも のではないか」。“呑み込まれる危険”と“取り残される不安 ”の板ばさみに葛藤する局面に際して、踏み込む勇気を得るた めには“確固たる価値観”が、押し流されないためには“融通 無碍な身の軽さ”が必要なのだ。

 兼好が碁を嗜んでいれば、後世に名を残す名人上手になって いたに違いない。もっともそれでは、“日暮らし硯に向かひて よしなしごとを書き綴る”ことは不可能だったか。

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  薀蓄がほとばしるままに、有名な第二三六段を現代に置き換え て解釈を試みよう。

 やんごとなき上人が村の衆を引き具して丹波の名刹を訪れる 。見ると神殿の御前にある獅子と狛犬の配置が通常と異なる。 いち早く目に留め、いたく感じ入った上人は村の衆に教示する 。「あなかしこ、これこそ名刹のありがたき徴(しるし)なり 」「このありがたさに感じ入らぬのでは、まるで話になりませ ん」。
 上人は、何でも知っていそうな年配者の神官を呼んで尋ねる 。「これには深い謂れがあるに違いない。ぜひとも承りたいも のだ」。そして神官の返事はーー。

 時代はめぐり、舞台は現代、主役は名物サイトを主宰するM 師匠とその仲間たち。今宵の講義は名局鑑賞。トッププロの打 ち碁を並べてF先生が懇切に解説する。一手、一手大盤に進行 する烏鷺の戦いが最高潮に達したその時、「あなかしこ、何と 素晴らしいのだろう」とM師匠が感きわまった声を張り上げる 。「定石を途中で打ちかけたまま足早に他へ回る、相手に手を渡して様子を見るのだ」「ねえカオル、いつも俺が言っている 味わい深い“含み”がこれなのだ、あー、わかるね」「ただ漠 然と棋譜を追っていてはいけない、心の目でしっかり掴み取り たいものだよね」。

 興奮の面持ちが覚めやらぬまま唇を震わせて、師匠は次にマヤに呼びかける。「碁の講義を受けるときは常にアグレッシブ な気持ちで感動を味わおうよ」「何と言っても碁は感ずるもの 、細かい読みよりも感性が大切なんだよ!」
 いつしか師匠の興奮が伝道して、カオルとマヤの二人もうっ すら涙ぐむ。

 「このありがたさをF先生にもっと確かめてみよう」と師匠 は提案する。「先生、これこそが碁の美しさ、玄妙なる世界だ ったのですね」教え子たちの熱心さに深く打たれたF先生、改めて棋譜を手にして目を丸くする。「いけねーっ、肝心の棋譜 が1枚抜けていましたぁ。こりゃまた失礼!」

 ここで時ならぬM師匠の絶叫。「あ〜、耳が痒いっ、皆さん 、こんなの作り話ですよーっ!」
 はいはい、全く根も葉もないふぃくしょんでした。どーぞ、こ らえてつかーさい。

亜Q

(2003.9.21)



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