さびしからずや道を説く君

 政界きっての碁の打ち手とされる与謝野馨さんが内閣の要職、官房長官に就いた。碁で磨き上げた柔らか頭脳に加えて、原子力・エネルギーから通商・産業、財務・金融まで広く深く積み上げてこられた識見、さらに官僚からの厚い信頼と幅広い人脈を背景に、難問が山積する安倍内閣を支えていかれることだろう。ライバル野党の小沢党首とも親しいらしく、「自分がまだ駆け出しだった頃、小沢さんは既に自民党の大幹事長だったが、碁は私がご指導申し上げている」とエールを送っている。

 私は碁を嗜む政治家なら、思想・信条を超えて一も二もなく好感を持ってしまう。だから民主党の管代表代行、渡部最高顧問をはじめ、長らく自民党の重鎮として活躍後、政界を引退して関西棋院理事長になった塩爺や時折八重洲の日本棋院に顔を覗かせる元衆議院議長のハマコー先生、さらに亡くなられた福田元首相や額の大きなほくろが特徴だった園田元外相らにも親しみを覚える。時局厳しき折、政治家としての力量よりも趣味で即断する有権者のはしくれ(もちろん私のこと)のこんな姿勢を、ノーテンキ教祖の「かささぎ」さんだけはきっと褒めてくれるに違いない。

 官房長官就任以降の与謝野さんの話を聞くと、他の政治家の方々に時折見受けられる“ボス猿志向”などは一切なく、政策通のベテランらしいリベラルな思考と安定感、信頼感に満ち溢れているようで、亡くなられた宮沢元首相とも思考法がどこか通じているようだ。ただ一つ気になるのは、以前と比べて声に力があまり入っていない感じがする点だ。最近病気をされて療養生活が続いたせいかもしれない。もしかするとご本人は、「我おのこ/意気の子/名の子/剣(つるぎ)の子」と詠んだ祖父の与謝野鉄幹の心を引き継いで、まさに命を賭けて重大な激務に取り組む覚悟なのかもしれない。

 でも私には、与謝野さんに対して誠に手前勝手な願望がある。2000年にもわたって人間の歴史と文化の一翼を担ってきた碁を世界に広めて欲しいのだ。もちろん、政治は大切な仕事だが、碁はそれに勝るとも劣らない価値がある。「有史以来、人類最大の発明ではないか」(碁のブログを展開される「たくせん」さんや「hidew」論客)との説もある。言うまでもないことながら、政治は本来「男子の本懐」と言えるような崇高な仕事だが、与謝野さんにとって「天職」だろうか——。

 そう言えば一昔以上前のことだったか、夏目漱石評論やノーベル文学賞受賞者の大江健三郎氏とのディベートなどで知られ、20世紀末に「自ら処決して形骸を断ず」と遺して自死した思想家・江藤淳さんが、当時新党を立ち上げては壊すなど挫折を繰り返していた小沢さんに「田園に帰れ」と説いたことがあった。私のことだからいつも烏鷺覚えだが、失意の小沢氏に愛情をもって「政治家の翼をひとたび畳み、故郷に雌伏して世の中の大局・悠久の大義に想いを馳せよ」といった趣旨の勧告だったと記憶する。

 もしも私が江藤淳さんなら(何とまあ大胆不敵!我ながらものすごく僭越!!)、与謝野さんに謹んでこの歌を贈りたい。

 柔肌の熱き血潮に触れもみで/さびしからずや/道を説く君(与謝野晶子)

 ストイックな硬派オジサンの私が意味する「柔肌」とは、女性のことではなく「囲碁」を指す。もちろん与謝野さんは囲碁という「柔肌」を熟知し、とっくに「熱き血潮」に触れている。だからこそ、日本人が育んできた囲碁文化を世界に振興し未来への発展の道筋をつけて欲しいと思うのだ。与謝野さんの祖母・晶子が詠んだこの名歌を、「せっかく柔肌の熱き血潮に触れたのに、要職とは言えそればかりに忙殺されていてはさびしくはありませんか」と読み解きたい。

 「天職」とは、「余人をもって代え難い」度合いで計るものではないだろうか。特に与謝野さんのように飛び切り優秀な人材にとって、仕事そのものの重要さは確かに“大場”ではあるけれど、「自分でなければできない必然性のあること」の方が“急場”なのではないか。与謝野さんがまだ駆け出しの頃に派閥の領袖だった中曽根元首相も最近の著書でこう述べている。「政治・経済は文化の僕(しもべ)」だと。

亜Q

(2007.9.2)


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