私が見つけた碁の愉しさと苦しみ

4年前に碁を始めた五十代の主婦から、千寿会応援ページ宛にお便りが届きました。 子供の頃に碁と触れ合った時の原体験が半世紀を過ぎても顔をのぞかせ、それが現在の 碁の愉しさ・苦しみに結びついているとの率直なお便りです。

全く初心者だった彼女を導いてくれる師匠は近所に住む九十代の爽やかなおじいさん。 軍隊時代に上官の相手をして以来、「ガツガツせず春風のように打つ」をモットーに、 小田原市内の碁会所で初級者を相手にボランティア指導を続けられておられるそうです。

彼女と老師匠のご了解を得て、お便りを連載いたします。


私が見つけた碁の愉しさと苦しみ(1)

                      湯川和子(小田原市、主婦)

私は少女の頃、「碁なんか絶対やるものか」と決意したことがあります。碁の嫌な面 を子供心に感じ取り、私には碁は向かないとひそかに絶縁の誓いを立てたのです。小学 校の低学年の頃でした。実家には古い碁盤があり、父親、弟、夫いずれも碁を嗜み、私 自身、碁には一種の憧れのようなものを感じていましたが、半世紀の間、碁と無縁の生活 をしてきました。

私が碁と触れ合った原体験は、開業医だった父が自宅に碁敵を招いて興じていたザル 碁です。娯楽の少ない時代でしたから、私は2歳年下の弟と共に碁盤の横に張り付き、 いつの間にか碁のイロハ程度は覚えたようです。48歳で亡くなった父は元気な頃よく 私たち姉弟と碁盤で遊んでくれました。その時父が何気なくつぶやいた「盤上には広が る宇宙観がある」との言葉は不思議な魅力を持っていつまでも私の心に残っていました。

碁に対する私の好印象を吹き飛ばしたのは、今は故人になられた父の碁敵でした。 (とてもいい人でしたが、碁に関しては悪い印象しかないのです。ごめんなさい)。 診療中の父を待つ暇つぶしに私に碁を教えてくれたことがあるのですが、その時、 私の黒石を「ホラホラ」と笑いながら追い掛け回し、全部取ってしまったのです。 今考えれば、あれが「シチョウ」でした。私は今でも、その時の「気持ち悪さ」を まざまざと思い出します。

私の母は父より12歳年下で、生真面目というのか世間知らずというのか、碁を マージャンや競輪・競馬と同一視して、私たち姉弟に「賭け事に手を出してはいけ ない」と厳しく言い聞かせていました。きっと私は母親の血を引いたのでしょう。 シチョウで全滅した時、「勝負事なんて大嫌い」と、私は碁との決別を誓いました。 (続く)

私が見つけた碁の愉しさと苦しみ(2)

運命の神様のせいかどうか、そんな私が、少女の頃の誓いを忘れて半世紀後に碁に 再会しました。きっかけはテレビ。衛星放送の「囲碁ウイークリー」で小林千寿棋士 の話を聞いたり、教育テレビの「レディース囲碁」を見て、失礼ながら初心者のゲス ト の方々より私のほうがましではないかなどと思い上がったりしながら、毎週番組を見 始めました。

私と一緒に碁を覚えた弟は、48歳の時に気まぐれに参加した公民館の碁会で入賞 したのをきっかけにのめり込み、段位認定大会で優勝して五段免状を取得、私の夫や 義兄も有段者でしたから、碁の面白さを吹き込まれる環境には恵まれていました。 通信教育で本を取り寄せ、PCの囲碁ソフトを買い込んでいたずらしていたところ、 夫からそれでは上達しないから囲碁サロンに行ってみたらと言われました。

ところがサロンを訪れてみると、体よく断られてしまうのです。碁会所から見れば 初心者はなるほど迷惑な存在なのだろうと自分でも納得していましたから、めげずに いくつか回っているうち、女性歓迎の張り紙を見つけました。そして、その碁会所で 出会ったおじいさんが私の囲碁人生の扉を開けてくれたのです。3年前の8月でし た。

おじいさんは「自分は桑原登、90歳です」と自己紹介し、私の名前を聞いて話し 掛けてくれました。私がテレビで覚えた一間トビ、シチョウ、カケツギ、ケイマなど の用語を一応理解していることを確かめると、「週に1度僕が相手をしてあげよう」 と言ってくれました。

桑原さんは何度も戦争に行き、戦友の死を何回も見て辛い思いをしたこと、上官 との人間関係で碁が役に立ったこと、27歳のときに初段になったが、自分は強く なるよりも碁を通じた人との交流、特に初心者や初級者を教えることを生きがいに していること、「ガツガツせず春風のように爽やかに打つ」ことをモットーにして いることーーなどを話してくれました。(写真は桑原氏)(続く)

私が見つけた碁の愉しさと苦しみ(3)

老師との初手合いは9子でしたが、ほどなく6子で互角に打てるようになりました。 去年まで、老師は私に「四隅はしっかりと確保しなさい」とアドバイスしていました。 実際、師匠は隅にはなかなか手を出さず、私がいつまでもかんぬきをかけずにいると、 やおら諌めるように飛び込んでくるといった風情でした。

ところが最近は「三々に入るようでは僕の負けなんだよ」などとぼやきながら早めに 打ち込まれるようになりました。結果は私が2眼許して生かしたり、何とかつぶしたり。 毎回2,3局の勉強で勝ったり負けたり、ほぼ打ち分けられるようになりました。

何より愉しいのは、思考レベルは違っても老師が何を考えているかが私なりにわかり、 そして私が打った手を老師が理解してくれているらしいことがそこはかとなく感じられ ることです。私よりはるかにのめりこんでいる弟に言わせれば手談の醍醐味。見知らぬ 同士の烏と鷺が出会い、口をへの字に眉根を寄せて互いに仇敵の如く打ち交わしながら 着手を通じて互いを理解し、共感し、そして敬意を抱き合うようになる瞬間だそうな。

後で確かめるとまるで見当違いのことも少なくないのですが、私程度のレベルでも、 手談のすばらしさを少しずつ理解できるようになった、子供の頃に父親がつぶやいた 「盤上の宇宙」も何となく実感できるーー。碁には真理の探求のほかに、人間賛歌とか 有限空間に無限の世界をみるといった途方もないすばらしさが潜んでいる。そんな気が して、週1回の老師との出会いがとても楽しみになってきました。ところが、碁には美 しい世界ばかりではないことを思い知らされたのです。(写真は桑原氏と湯川氏)(続く)

私が見つけた碁の愉しさと苦しみ(4)

マンツーマンの指導を受けるようになって半年ほど経った頃、老師から「湯川さんも たまには他流試合をやってみるか」と言われました。紹介されたのは、以前から10人 ほどのグループで対局していた先輩の女性。私の被害妄想かもしれませんが、その女性 は新米が混じったことに不服そうな顔をしていた印象があり、少々気が重かったのですが、 せっかくのお勧めですから、「よろしくお願いします」と彼女に頭を下げました。

彼女は布石の段階から、とにかくべたべた石をつけてくる。その昔、父の碁敵にシチョウで 全滅させられた時のものすごい気持ち悪さをはっきり思い出してしまいました。老師は彼女に、 「また君の悪い癖が始まった、まだ布石だよ、一応の形が出来ているのだから大場へ回るように」 と苦言を呈するけれどいっこうに止めない。何回か手合わせしているうち、私は蕁麻疹が出そうな 感じがしたり、そのうちに実際に吐き気がしてきてどうしようもない。これは囲碁ストーカーだと 思ったらもう駄目。さっさと投了して、先生と彼女には申し訳ないと謝ったうえで、以後その人との 対局を辞退してしまいました。

その体験が、「私の囲碁」について考えるきっかけになりました。私は他人様と戦うことが嫌い、 しつこくべたべた迫られると理屈抜きに逃げ出したくなるらしい。私が20年以上続けている卓球 人生で、どうしても越えられなかった私の超弱点、勝ち負けを争うことが苦手な性格が碁にも顔を 出す。卓球を格闘技だという人がいるが、めらめらと目から炎を出している相手の顔を見てしまう と、「どうぞどうぞ」という気持ちになってしまう。とにかく相手の勝負への執念に気付かないように するのにかなりの努力が要るのです。囲碁も同じ勝ち負けのゲームだった。嫌いだ嫌いだ と思っていながら、又そんな勝負事を趣味に加えてしまったことに多少の後悔があります。

ただし、卓球に関しては私の業にも似た弱点から最近やっと抜け出せそうな気配が無くも無い。 しかし、始めたばかりの囲碁も抜け出すのにこれから20年もかかったのではたまりません。要する に私のメンタリティの問題。心が弱い、人間が甘いのだろうとつくづく思います。ただ、自分と戦うこ とは、少々オーバーですが人生では割とあることで、何度か私もそんな戦いを潜り抜けてきたはず。 しかし困ったことに、他人様相手だとからっきし意気地がない。相手を必要としない楽しみ方はい くらでもあるはずなのに……とぼやくことが多いのです。これは私が歩んできた人生と、どうも深い 関係がありそうです。 老師の碁は品があってとても穏やかだからいつも楽しいけれど、他の人と対局したら、そうは いかないと確信しています。私は勝負事に向いてない!そう思うと「限界だあ!!」と叫びたくな ります。先日(7月1日放映のNHK杯)林海峯対宮沢吾朗戦を観ていて、宮沢棋士の碁がとても 気持ちが悪くてイライラしてきました(宮沢先生ごめんなさい!)。こういう感じ(喧嘩を挑むような 打ち方だと私は思う)の対戦相手に当たると、私は石を放り投げて逃げ出したくなるなあと思って しまいました。

でもまあ、私の望みは4級ぐらいになること。少しは迷惑がらずに笑って相手をしてくれる人も 出てくるのではないかしら。奥の深い碁に対してまだかじり始めたばかりの私が、「限界だあ」 なんて叫ぶのは不遜と言うべきかも知れません。有段者の方にせめて4子以下で対戦できる ようになれば、こうした迷いはなくなっているだろうと希望をもっています。(終り)

(2001.7.10)

私が見つけた碁の愉しさと苦しみ(その後)

今、囲碁サロンから帰ってきたところ。

「8/5、小林覚先生来る」なんていう張り紙が当囲碁サロンに張り出してありました。 ビックリです。先生は、お酒とカラオケが好きだそうで、指導の後、カラオケパーティ をするそう。有段者は参加して、なんて書いてありました。

今日始めて、白石を持ちました。相手は男の方で、なんと5子置かれてしまいました (11級だそう)。ともかく、頭だけは出しておかなければと心に命じていていたの ですが、それがかえって焦りになってしまい、あちこち黒の地所だらけのような気がし てきました。私が、「コリャ駄目だ」と思っているのに、先生は、「まだ黒がいいけど、後は湯川さんがどれだけ黒の地を削るかだなあ」なんてのんびりしてい る。私が石の計算ができないと言うことがひとつ。それから、煮詰まってくると無意 識に、黒石の立場で考えてしまう。いつも黒しか持ったことが無いから、自然と黒石を 自分が打ったような錯覚に落ちてしまう。「違う違う」と打ち消しながら、でも混乱し てくると言うお粗末。結果は、大負け。今考えると、そんなにあせる必要は無かったよ うな気がします。結構良い勝負してたのかもしれない。「こりゃ駄目だ」と勝手に 思ったところから、失敗が始まったのかもしれない。石数を数えられない、数える気が ない(数えるなんてまだ早いと思っている)。いろいろ勉強することが多いね。

(2001.7.23)

「私が見つけた碁の愉しみと苦しみ」後記

タイトル1;悩みは尽きない(言葉に固まる)

「柔軟な発想」の大切さはよく言われるし、自分でも簡単に使ってしまう言葉。でも実際にはこれが結構難しい。

碁を始めたばかりの頃、つい欲張って広く石を置いてしまい、結局お互いをつなげることが出来ずに失敗してしまうことがよくあった。そんな時、先生から言われたのが「2間トビより1間トビ、大ゲーマより小ゲーマ。丁寧に注意深く、まずはしっかり戸締りを」。そう指摘され納得すると、今度はそこから動けなくなり、いつもそのようにしか打てなくなってしまう。今思えば「言葉に縛られてしまう(言葉に固まる)時期」というのが、確かにあった(いまも引きずっていると思うが)。そんな頃でも心の中では、もう少し広く打ってみたいと言う欲望がちらつくときがある。そんな心を自分で押さえ込んでしまうのだ。

ところがその一方で、「盤上ではどう打ってもいいんだよ」との言葉も思い出す。抑制と自由――言わば二律背反する言葉に戸惑うばかり。自分の思うように二つの言葉の間を自在に動けたら更なる進歩があるのだろうと思いつつ、自分の置く石なのにやっぱり縛られているなと、感じることがあるのです。

タイトル2;若い心―リベンジ!

その兄弟と初めて会ったのは去年の冬休みの頃。彼らは小学4年生と6年生。それぞれ5歳、7歳の頃から学校が長期休みに入ると桑原先生を訪ねて通ってきていたらしい。腕前は弟の方が上らしく、先生と弟、私と兄という組み合わせで対局することになった。

どのように石を持ったのかは覚えていないが、12歳の子供を相手にするプレッシャーはよく覚えている。二人共とても元気が良く、特に隣で打っている弟の勢いが私の左肩に伝わってくる。2人とも詰め碁が好きと言うだけあって、「分かるかなあ」なんて言いながら、私の地所(?)と思っている場所へ遠慮なく割り込んでくる。そのたびごとにどこかに穴があるのかしらとドキドキしながらじっと盤上を睨みつけるといった具合。何だか勉強させてもらってる感じだった。その時は辛うじて私が勝ったけれど、「来年又会ったら今度はとても敵わないね」と言って別れた。

そして今年の春、その兄弟の強い方、弟と再会した。彼はほやほやの小学5年生。都会の子供に比べてどこか幼い表情は相変わらずだが益々元気が良い。なにより繰り出してくる石の早いこと。煽られながら、緊張しながら対局に入った。途中で彼はちょっと失敗したかなという感じが私はしたが、相変わらず彼は石をどんどん放り込んでくる。お兄ちゃんと同じように「分かるかな」なんて言いながら。私は頭がカチカチに硬くなっていくのが分かり、もうへとへと。それでも彼の失点(?)のおかげで、兄に続いて辛うじて私は勝つことが出来た。ところがその瞬間、彼は「リベンジ!」と叫んだのです。「勘弁して!」私も思わず叫んだ。「おばさんは疲れ果てて限界、ごめんね」。彼は大変不満そうだったが、何度も謝りつつ先生に代わってもらい、私はふらふらと家に帰った。このパワー!これが私にはもう無いのです。

(2001.8.22)


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