ボビーに首ったけ~2

「世紀の決戦~冷戦中の1972年アイスランドで行われた世界選手権でボビーは米国人初のチャンピオンに輝いた」
なお、この写真はたまに愛読する『ニューズウイーク』誌のご厚意を確信して亜Q文責で掲載させていただきました。

 私がボビー・フィッシャーと仲良くなれたのは、チェスのことを何一つ知らなかったからだ。ボビーはチェスを知っている人間はみんなバカだと思っていた――こんな粋な書き出しで、『ニューズウイーク』2011年6月22日号(日本語版)が天才の素顔と孤独を紹介していた。筆者は新著「ボビー・フィッシャー」を著したフォトジャーナリスト、ハリー・ベンソン(米)。2008年に死去したボビーと、謎多きチェスの天才を回顧して素顔を洗い出してくれたハリー、それを日本語に翻訳した同誌日本語版編集者に心から乾杯したい。

 ボビーはブルックリン生まれのユダヤ人。冷戦さなかの1972年、チェス王国を自認していたロシア(当時ソ連)の世界チャンピオンを破って米国人初のチェス世界チャンピオンに輝き、秀才プログラマーどもが寄ってたかってつくり上げた最強スーパーコンピューターさえも軽く打ち負かした。その後、20世紀終わりから21世紀にかけて、相手が人間でも機械でも負けることはなかったようだ。

 ソ連チャンピオン、スパスキーとの戦いはアイスランドで数週間かけて行われた。その21局の対局中、ボビーがとんでもないヘマをやらかした。ホテルに戻った彼は5人のグランドマスター(チェス選手の最高位)を相手に自分の手を入念に調べ直した。そしてとうとう5人が「もう全員相手をした。誰も残っていないよ」と音を上げた時、ボビーは「まだハリーがいる」と言って、チェスを知らないハリーに相手をさせた。ハリーが駒を動かすと誰もが笑ったが、ボビーだけは笑わなかった。彼が見たこともない手をハリーが指したからだ。

 ある晩、エストニア出身のグランドマスターが「チェスはソ連のあらゆる村々まで浸透している。ブルックリン出身のユダヤ人(ボビー)などに負けるはずがないと誰もが思っている」とボビーに語った。事実、スパスキーにはいつも大勢の世話係がついていたが、ボビーには誰もいなかった。もちろん、米大使館から花やフルーツが届くこともなかった。「奴らはボクがここにいることも知らないし、どうだって良いのさ」とボビーは言ったらしい。このあたりは、韓国から日本に渡って間もなく頭角を顕わし出したチクン大棋士の境遇に似ているような気がする(ご参考までに、「我が妄想~チクン大棋士考・四面楚歌」をご覧ください)。

 著者のハリーはたまたま、世界選手権の直前に全米プロフットボールのニューヨーク・ジェッツの選手とニクソン大統領一家を撮影していた。ハリーはニクソンから「ボビーの功績はすばらしい」と伝言を頼まれ、ボビーにその通り伝えたが、ボビーはそんなことよりジェッツの写真を欲しがった。ハリーはジェッツの写真を入手して「やっつけろ、ボビー」と書き入れて渡したところ、ボビーは選手が書いたと思い込み、とても喜んだ。ハリーは著書で、「もし捏造だということがばれたら、ボビーは絶対許してくれなかったろう」と告白している。

 晩年の21世紀初頭、ボビーはなぜか日本が定住したいと言って入国したが、国際管理法違法だか何やらで8ヶ月も拘束され、挙句の果てにアイスランドに追放された。拘束中のボビーは“古めかしいチェス”を捨て、まったく新しい“ランダム・チェス”構想をまとめていたらしいが、その記録さえ残さずにアイスランドへ行ってすぐ2008年に死去したという。このあたりのことを、やはり『ニューズウイーク』から引用して6年前に書いたので、ご参考までに)。

 奇天烈な天才の素顔や孤独な境遇は、この歳になってもいまだに天才大好き少年でありたい私(亜Q)には魅力的過ぎる。思い起こすのは数学史上最大の難問の一つと言われた「ポアンカレ予想」を解いたロシアの数学者、グリゴリー・ベレリマン。形式主義的で由緒正しい論文報告手段をすっ飛ばして書きなぐった証明が認められ、数学界最高の権威と言われるフィールズ賞、さらにスパコンメーカーのクレイ社から百万ドルの賞金授与を申し入れられたが、なぜか彼はいずれも拒否し、老母と共にロシアの田舎に隠遁して細々と年金暮らしを続けたらしい(参考1参考2)。一個の人間としての彼を描いた記録があれば是が非でも読みたいと思う。

 もちろん、碁だってチェスや数学に負けるはずはない。目先の勝敗よりも、後世にまで伝えられる惚れ惚れするような着手・着想をどしどし打ち出して欲しい。そう、大数学者もコンピューターも到底浮かばない、かけがえのない碁才の出番。特に若い棋士諸兄の奮起を期待するが、いつまでも元気で現役を張っている高齢棋士の方々にも勇気ある挑戦も結構待望している。

亜Q

(2011.6.16)


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