独立国家のつくり方

『独立国家のつくり方』なる大仰な書名を冠した新著(講談社現代新書、760円)の書評(7月10日付日経新聞)を読んだ。著者は「新政府の初代内閣総理大臣」を自称する坂口恭平氏。このノーテンキぶりが小生の好み。1978年に熊本県で生まれ、『TOKYO 0円ハウス 0円生活』『隅田川エジソン』などを著した変り種の作家らしい。

昨年5月、東京・銀座にある所有者不明の土地を勝手に首都として「独立国家」を樹立。熊本市内の築80年の一戸建てを3万円の家賃で借りて「首相官邸」を構えた。何も建てず、何も壊さず、できるだけお金を使わないで生きること、それが「新政府」の理念だそうな。

「資本主義を否定はしないが、違う視点で社会を見たら新しい生き方ができるということを示したい」なぞとちょっとカッコつけてるが、その具体的なインフラとして、車輪と太陽電池が付いた「モバイルハウス」を考案したのはなかなかエライ。置いてもいい場所をインターネットで募ったところ、現時点で1400㎡を超える申し入れが舞い込んだ。これが「国土」になるんだと。

ワセダの建築科で学び、住まいのあり方を考えるうち、「土地を個人が所有し、そこに家を建てるのはどこか変ではないか」と思い立った。ブルーシートで作れて簡単に撤去できる路上生活者の「家」に触発され、移動できる家のアイディアを得、ついに「独立国家」建設に到ったらしい。それからそれへと妄想が膨らんでオモロそうな話になるのは、結構毛だらけ猫灰だらけだ。

と、このあたりまで読み進めて、我が灰色の脳細胞は「これこそ碁の考え方そのものではないか」と気がついた。着手の1手1手はまさに「所有者不明の土地を勝手に首都として」旗を立てる行為。なるべくコストをかけずに「活きる」、これこそ碁の要諦。「モバイルハウス」は時々刻々状況が変わる中で、既着の石の軽重評価を常に見直しながら「次の1手」を模索するための「仮の住まい」にほかならない。

相手のあることだから、互いの信念と主張がせめぎ合い、場合によっては相手の石を取り込み。自分の石を取り込まれ、いつしかそれぞれの「国家」が形成される。その「独立国家」の規模こそが、確定された「地」になるのだろう。

似たような話を昔書いた。そう、14世紀の孤高の出家僧が日暮らし「よしなしごと」を書き連ねた『徒然草』を現代の予備校のマドンナ教師が自分の塾講義をまとめて上梓した『下手な人生論より徒然草』。筆者自身、「もののあはれ」や「無常観」を根底に「厭世的」で「懐疑的」、ある意味、嫌味たっぷりな「世離れした宗教者の観念論」を敬遠していたらしいが、作者の吉田兼好が当時には珍しい「合理的で論理的な思考の持ち主」だと気がつく。

法師の視線は広く深く、説くところは簡潔明瞭で鋭い。教科書で断片だけ読んだ学生時代には単なる「決めつけ」と捉えたマドンナ先生が、今ではその手加減のなさを「痛快」と感じるようになった。しかも兼好は、ものごとを多面的に捉える「複眼的思考」の持ち主だから、章段によっては一見「矛盾」とも思える論旨の食い違いが見られる。若い頃の筆者は「ああ言えばこう言う偏屈爺」と思い込んでいたようだが、今では「固定観念にとらわれない柔軟さに感服」して、以下の文章を綴る。

川面に浮かぶ飛び石をひょいひょいと渡り歩くように、兼好のフットワークは軽い。人生を深く見据えて要所要所に確固たる足場を見つけながらも、なおかつ全身の重みを一点には預けない。右に偏れば左に体を移し、前のめりに気が逸ると後ろへ身を引いてみる。絶えず逆ベクトルを意識する兼好のバランス感覚こそが、『徒然草』の醍醐味だと思うようになった――。

このくだりはまさに「独立国家」論と共有する。憂き世に"一定(いちじょう)の住処(すみか)"など存在しない。次々に旗を立てた着点の価値を高め、場合によっては他の着点を活かすために犠牲にし、総体としてのインフラ価値を高めていく"融通無碍な身の軽さ"こそが、碁の本質なのだろう。

亜Q

(2012.7.10)


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