碁の雅(みやび)を伝えたい~千寿先生壮行会から

8月終わりの日本列島を覆うこの雨は残暑を払い飛ばし、秋の訪れを告げるのだろうか。つい1週間前は猛暑の真っ盛り。千寿会友のI氏が経営される東京・芝浦の老舗料亭に千寿会講師の王唯任四段を含む有志24人が集い、文化庁所管の国際文化交流使として8月末にヨーロッパに赴任される千寿先生の壮行会が開かれた。

碁界初の文化交流使に任命された千寿先生の活動は昨年度に続いて2期目に入る。昨年3月から今年3月にまでの1期目は主にオーストリア・ウイーンを本拠に、フランス、スイス、ドイツ、スコットランド、チェコ、スロベニア、ブルガリアなどを訪問。文化庁の大型企画「欧州青少年囲碁マスターコース」をウイーンで開催(1週間で12カ国延べ400名が参加)されたほか、第51回欧州選手権戦、ベルリン大使館・デュッセルドルフ総領事館主催大会、ドイツユース大会、欧州青少年大会、ソフィア子供大会などでの囲碁指導をはじめ、クール・ジャパンの象徴として海外で大人気の日本の漫画文化を伝えるマンガ・フェスティバル(数百~数千人も集まるらしい)で碁を紹介、インターナショナルスクールや各地域に囲碁倶楽部を設立、さらに日本大使館や各地の囲碁クラブでの講座・指導に大車輪の活動振りだったようだ。

2期目の今回は来年3月まで約7ヶ月間。本拠をパリに移し、一連の活動の総仕上げに入る。文化交流使1期目を含めて、これまでの20年間以上にわたって個人的に続けてこられたボランティア活動を通じて蒔いてきた種が実る集大成の時期かもしれない。

壮行会の席でI氏心尽くしの和風懐石を堪能し、美酒が快く回ってきた頃、千寿先生が立ち上がってこんな話をされた。

各地を訪れる際、私は必ず榧(かや)の碁盤と白蛤・那智黒を合わせた碁石を持参します。欧州各地にはようやく碁盤があちらこちらに置かれるようになりましたが、盤はベニヤを張り合わせた粗末なものだし、石もプラスチックやガラスばかり。本物の磐石だけが持つ手触り、質感、弾力、響き、やわらかさといった、日本がつくり出した碁の世界、全体の調和を体で感じ取って欲しいからです。もちろん、対局前後の挨拶、石の持ち方・置き方、終局の作法なども含みます。外国人に日本刀を実際に持たせ、切れ味や鍛え方と同時に美しさを知ってもらうのと同じです。

今や欧州では、中国や韓国の棋士たちが大勢普及活動に乗り出しています。もちろん、これはとても素晴らしいことですが、「どうすれば強くなれるか」ばかりに指導が偏り過ぎているような気がします。実際に、欧州で囲碁大会が開かれると、中国や韓国出身の強豪、中にはれっきとしたプロ棋士も入って上位を独占し、地元の人たちの間には「どうせ勝てないから」と言って辞退する動きが広がっているようにも見えます。

こうした諦めや厭戦(えんせん)気分が碁の普及に水を差すとすればとても残念です。そもそも碁は勝ち負けの結果だけではなく、もっと人間の思考過程や精神に働きかける知的創造の文化です。こんな素晴らしいものを、勝ち負けにこだわって放り投げて欲しくない。それには日本伝来の棋道を是非ともヨーロッパの人たちに体得してもらいたい。だから私は今年、日本伝統の「碁の雅」を一人一人に植え付けていきたいと思います。(以上、千寿先生の談話から)

中国はこの北京五輪で金メダル51個を獲得、宿願の世界トップに立った。この壮挙に水を差すようで心苦しいが、競技の偏りがちょっと気になる。卓球、飛び込み、体操など一部の種目で思う存分メダルを集めた。特に卓球は中国生まれの人が各国に散り、世界選手権はまるで中国選手権の様相。制限を打ち出さなければならない状況に追い込まれているという。国家的な強化策を立て、粘り強く実行してきた努力は認めるが、「競技の普及を考えればいびつ」と8月25日付の朝日新聞に西山論説委員が書いていた。

関連して、日本で開催されるアマチュア囲碁大会でもこの傾向が見受けられる。中韓出身者が毎年のように上位を占め、日本人は蚊帳の外に追い出され始めている。これについては主催企業の考え方にかかっているから私は口出しを遠慮したいが、基本的には日本は碁を敬う気持ちと「碁の宗主国」であることに誇りを持ち、国際普及に尽くしていけば良く、勝敗は二の次だと思っている(参考までにこちらをご覧ください)。日本人が世界に飛びぬけて碁の才能に恵まれているはずはないし、そのうち欧米やインド、ロシアあたりの囲碁後進国から天才が現れないとも限らない。日本で活躍する中韓出身者の方も日本の児童を対象に世界最先端の碁を教えるなどの努力も評価したい。

北京五輪に話を戻せば、シンクロナイズドスイミング競技で中国の教え子たちに初のメダルをもたらした井村雅代コーチは、アテネ五輪後に日本代表指導者を勇退したが、改めて中国からコーチを依頼されて悩んだ末に引き受けた。「日本のコーチングが世界に認められた。自分が外に出れば日本の評価が高まると思った」と話している(8月25日付朝日新聞)。最強国ロシアのスタッフが全世界に広がり「ロシア流」の育成法が幅を利かせていると言われる同競技に日本の楔(くさび)を打ち込む井村さんの挑戦を今後も応援したい。

一方、女子サッカーの「なでしこジャパン」は、最終戦に敗れて惜しくも銅メダルを逃した後、どちらかと言えばアンチ日本の姿勢が強かった全観客に向かって深々と礼をして謝意を表し、勝者以上の拍手を浴びたと言う。スポーツ(知的スポーツ「囲碁」も含めて)は強いことが人の心を打つが、それ以上にそのスポーツを敬い、勝者と敗者をいたわり、観客に感謝する心が感動を呼ぶのではないか。

碁を棋道として発展させてきたのは間違いなく日本。これを「日本の碁」とひけらかすのではなく、「本当の碁」として世界に広げ、いつの日にか「世界の碁」になればこんな素晴らしいことはない。それまでの道のりを考えるとあまりにもはるか遠くでくじけそうになるが、日本には岩本薫和元本因坊や藤沢秀行名誉棋聖らの足跡がある。千寿先生にとってもこれまで四半世紀にもわたって築いてきた人脈やノウハウがある。

海外普及活動は表面からはうかがい知れないような苦労を伴うものだと思う。まして、ベテランの年齢に差し掛かった千寿先生が “先生と雑用係”を兼任しながら各国各地を回る。学業とピアノ修行を両立させる愛娘のアンナちゃんも思春期を迎え、異国での母子二人暮しは並大抵の苦労ではないと拝察する。それでも誰かが松明(たいまつ)を灯し続けていかなければならない。私(亜Q)らしく締めくくれば、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」――。

亜Q

(2008.8.25)


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