仙人碁睡

 秋たけなわの先月13日、埼玉県久喜市で開かれたNEC杯準決勝を観戦に出かけた。愛用の原付バイクにさっそうとまたがり、白バイに細心の注意を払いながら平均○kmオーバー(原付の速度制限は30Km/h!)のスピードで国道17号を一路北上。ポンコツマイカーより30分は早いだろうとの思惑は見事外れ、20分ほど遅れて会場に着いた。観客はざっと300人。席は後方だったが、遅刻のおかげで対局直前、和服姿の依田紀基九段とトイレで同席(?)し、扉の前で待機中の小林覚九段と話を交わす僥倖を得た。千寿会をさぼって駆けつけた甲斐があった。私はつくづく自らのツキに感謝した。

 ところが何と対局早々、愚かな私に抗(あらが)いがたい睡魔が襲った。終局後の小松九段の解説によると、絶不調を伝えられる覚九段が大胆かつ足早な石運びを見せ、後はがっちりシャッターを下ろせば楽勝という流れになったところで乱れ始め、大逆転を食らったらしい。その後に行われた高尾紳路名人・本因坊と黄イソ七段の対局は最後まで目を開けていたが、覚・依田という最もひいきの棋士の熱戦ハイライトは夢のかなた。「あき〜ら〜め〜ま〜しょう」と、私は昔のはやり歌「無情の夢」を口ずさむしかなかった。

 そう言えば、毎週楽しみにしている日曜昼下がりのNHK杯中継でも必ず20分またはそれ以上眠りこけてしまう。書も読まず、五十肩でゴルフを断念し、勤務先では窓際、家族からは構ってもらえず、ペットのカメだけが話し相手という幸せ薄い人生を送る私は、俗世間にあって仙人のような心境に到達、碁を唯一無上の友としている。テレビもニュースとスポーツ中継ぐらいしか見ないのに、なぜ選りによって碁の番組で寝てしまうのか。石音パチリパチリの合間、万波ナオたんの秒読みの声が妙なる子守唄になってしまうのだろうか。

 そんな懊悩を抱えて11月2日付の日経新聞夕刊を見ると、俳人・長谷川櫂氏による「千里の名馬」と題した文章(「プロムナード」欄)に目が留まった。兼好法師の『徒然草』に書かれた法然上人の教えが書かれている。私は以前、本欄で『囲碁徒然草』なる駄文を書いたから興味津々。しかも話題は「修行と眠気」についてではないか。(以下、新聞から引用)

 法然上人と言えば、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いた人。ある時、一人の信者が来て「念仏を唱えていると眠くてなりません。どうしたら眠くならないでしょうか」と聞いた。

 こんな場合、相談の回答者は眠くならない方法をあれこれ伝授するのが筋。ところが法然はこう答える。「目の覚めたらむ程念仏し給へ」(眠ければ眠って目が覚めたら念仏を唱えなさい)。

 さすが、法然上人。もうこれだけで御仏の懐に包まれるような極上の話なのだが、まさか、これを中学の教科書に載せるわけにはいかないだろう。授業中も眠りたいだけ眠って目が覚めたら先生の話を聞きなさいというようなものだから。

 そうそう、川崎展弘(てんこう)さんに法然を詠んだいい句がある。

 花は桃僧は法然と答へける 展弘

 誰かに何が好きですかと聞かれたのだろう。その答えは「花なら桃、お坊さんなら法然」というのだが、「法然は桃の花のような人」とも聞こえる。法然の豊かな人となりをたたえる名句。この句も『徒然草』のこの話に想を得たのではないだろうか。(引用終わり)

 まさに、わが意を得たり。私はつくづく感じ入った。念仏仏教といえば、私は浄土真宗を開祖した親鸞聖人しか興味がなかった。私が大好きな「他力本願」を説き、戒律厳しい中で大胆にも妻帯を実践し、最も優れた宗教書とも言われる『歎異抄』であの有名な「悪人正機説」を説いた。しかしWikipediaによると、浄土宗を開いた法然は親鸞の師であり、自ら編んだ選択集(せんじゃくしゅう)に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、既に悪人正機説を展開していたらしい。腰の軽い私はただいまから、勝手に「法然上人の弟子」になることを心に誓った。

亜Q

(2007.11.13)


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