棋士を“こしらえる”〜『蛇にピアス』を読んで狂いました

 読み始めた時は「また“この手”の小説か」と思ったのだが、読み終えた時に、妙に心に残る何かがあった。日を置いてもう一度読み返してみると、最初に読んだ時よりもディテールへの目線の言語化に秀逸さを感じるとともに、読後に残る何かがいったい何なのかに気がついた。それは「哀しみ」であった??。芥川賞作家の大先輩、宮本輝が褒め上げた金原ひとみ(1983年生まれ)の受賞作、『蛇にピアス』を読んだ。

 同時に受賞した『蹴りたい背中』(綿谷りさ)とはまるで違う。小娘に爪を立てられ、頭髪をぐしゃぐしゃにされた気分。内容についての講評などできるわけはない。何でも碁に結び付けて考える癖がある私は全く場違いなことを考えた。「自分で自分を壊していくように見える飛び切り外れた女の子でも、いや、だからこそ、碁を教えればとても強くなるのではないか」、「20過ぎたばかりの今から教えたとしても、10年足らずでアマ高段者になれるのではないか。もし小さい頃から碁を教えていれば、金原ひとみは棋士になれたかもしれない」??と。これは可能性を独断したもので、本人にその気があるかどうかは関係ない。

 何よりもまず、凡人には及びもつかない独特の感性、自分が価値を感じたのもなら多数が認めるかどうかなどお構いなしに取り取り憑かれていく魂。加えて、自分が言いたいことを的確に文章にする論理構築力と、語彙、用語・用字に通じた言語能力。いつ勉強したのかわからないから、きっと天性なのだろう。碁が強くなるにはこんな才能も関係があるのではないか。

 そんなことを考えながら、中山典之文士が著した『囲碁界の母・喜多文子』の文中に気になる箇所があったのを思い出した。同書の冒頭章に駆け足でまとめられた『喜多文子小伝』での次のくだりだ。

 日本棋院の創立以後、喜多先生は現役を退き、女流棋士の育成に活躍の場を移した。一人でも多く女流棋士を後世に残すため、“利発そうな”少女を見かけると「碁を習ってみませんか」と声をかけるのである。碁才のあるなしは問題ではない。碁を全く知らない少女に碁を教えて、ついにはプロ棋士にしてしまう。人生努力あるのみ、というのが喜多先生の信条だった。こうして“こしらえた”お弟子さんは大山寿子、鈴木津奈、杉内寿子、神林春子??(“”は本文中にはなく、私が勝手につけました)。

 これを読んだ時、碁才乏しきを自認せざるを得ない私は「そんな馬鹿な」と思った。“利発そうな”外見と本人の努力さえあれば、碁才のあるなしに関わらずプロ棋士を簡単に“こしらえる”ことができると言うのか!ザル碁の私ではあっても、碁が強くなる条件、資質とはこういうものだというささやかな信念がある。ま、ちょっと聞いてやってください。

 まず、碁を知らないすべての現代日本人に「碁を習いませんか」と真心込めて声をかける。仕事が忙しいとか受験勉強中とか、そういう人生のことは別にして、今すぐでなくともその気になる人は半数に達するかどうか。半分以上の人は、のっけから碁に向いていないのではないか。これはもちろん悪口ではないが、「碁など目ではない」と言い換えた方がいいかもしれない。例えば「自分は陸上競技には向いていない」とか「陸上競技に関心がない」と言うのと似ている。

 生き残った半数弱の中から有段者になれるのは、その1〜2割程度か。碁に関心を示す人なら、環境次第で誰でも初段程度にはなれる可能性があるかもしれないが、大多数は継続しようという意思と情熱が伴わない。この中から高段者になれるのはさらに2〜3割程度に減るだろう。県大会常連クラスの強豪になるにはさらにその2〜3割。全国レベルのトップアマには、そのまた2〜3割程度。さらにプロ棋士となると、覚えてのめり込む年代と環境が問題になる。おそらくトップアマの1割程度に絞られるのではないか。もちろんこれは潜在的な資質を持つ人数であって、実在する人数ではない。

 そして強引に丼勘定。可能性だけからみれば10万〜20万人ぐらいはトップアマに、そして1万〜2万人程度はプロになれる潜在能力を持っているのではないか。だから、金原ひとみでも、フリーターの兄ちゃんでも、あるいは碁を知らないまま臨終の際にいる老人でも、しかるべき時にめちゃくちゃに碁を勉強していたら、もしかすると世界の最強棋士に列していたかも。その意味で、「棋士を“こしらえる”」という表現は合っているのかも知れない。そう言えば、千寿先生を長姉とする小林ファミリーだって猛父正義氏が“こしらえた”傑作かも知れぬ。

 問題は、トップアマないしプロになれる資質とは何か。前に述べた論理構築力や言語能力に加えて、想像力、推理力、数理的な才能、そしてバランス感覚??、思いつきで列挙してもぞろぞろ出てくる。強いて学校の教科に当てはめれば「数学」が最も近いかもしれない。とは言え、こんなものは「必要条件」の一部であって、決して「十分条件」ではあるまい。極限の勝負の世界でのた打ち回りながら、倦まずたゆまず勉強を続けていく愚直な勤勉さと、真理を求めてやまない探究心みたいなものが、平凡だけれどきっと一番大切なのだろう。

 将棋の米長永世棋聖は「自分の兄たちは頭が悪いから東大へ行った」とあっさり言い切ったらしい。誤解を与えそうな表現ではあるが、私はこの「冗談めかした本音」が大好きだ。つまり、「なまじの頭のよさ」ではまるきりお話にならない。語弊を省みずに極論すれば、「碁の真髄(魔力)に触れて、狂いゆく魂を自ら増幅していく特別な気質・才能」といったものではないだろうか。

 何だか、ゴッホとかランボーとか太宰治の世界。才乏しき私には、ひたすら憧れるだけの高嶺の花なのだ。学問や技芸が発展するためには、環境や空間・時間的なインフラが必要とされるが、碁はもともと頭脳の中に小宇宙を創造する最もシンプルかつ深遠な世界共通の知的ゲーム。インターネットが普及して、碁も急速に国際化しつつある中で(そう言えば王唯任四段の博士論文はそろそろできたかな?)、“狂気の天才”が突然どこかの国に現れても不思議ではない。普及が進んでいるフランスやドイツあたりならば10〜20年、イスラエルやインド、さらに数学オリンピックで毎年好成績を挙げていると言われるブルガリアやどこか東欧諸国なら30〜40年かかるかもしれないが。日本、中国、韓国、台湾のアジア勢が本家の看板にあぐらをかいていれば、いつ下克上に遭っても不思議はない。むしろ囲碁発展のためには、その日が来ることを鷹揚に待ち構えていた方がいいのかもしれない。そしてそれは、千寿先生がこれまで播いてきた種が実ることを意味している。

亜Q

(2004.3.20)


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